中島弾で平成締め 堂安、南野と新元号三銃士が躍動

後半、先制ゴールを決め笑顔の中島(撮影・河野匠)

<キリンチャレンジ杯:日本1-0ボリビア>◇26日◇ノエスタ

日本代表MF中島翔哉(24=アルドハイル)が途中出場で森保ジャパンを救った。日本(FIFAランク27位)はボリビア(同60位)に1-0で辛勝し、平成最後の代表戦を白星で飾った。2列目にワールドカップ(W杯)ロシア大会組のMF香川らを並べるなど、22日のコロンビア戦から先発11人を総入れ替えしたが攻撃が停滞。後半途中から投入されたMF中島、南野、堂安が一気に活性化させ、中島が通算3点目となる決勝点を奪った。次回は6月に国内で2試合を行い、南米選手権(ブラジル)に招待出場する。

主力の存在感だった。後半16分から途中出場した中島が、流れを変えた。迎えた同31分。敵陣から途中出場の三銃士で攻め上がった。中央の堂安から前線の南野へ。左から上がった中島は、南野からのパスを受けて速い右足の振りでニアサイドに突き刺した。

「瞬間の判断。ファー(サイド)に打つこともできたけど、相手も大きいので狙って打った」。平成最後の代表戦で唯一の得点。日本サッカーが飛躍した一時代を象徴するかのような若手3人衆の活躍だった。

この日は先発を総入れ替えし、W杯ロシア大会組の香川、乾、宇佐美が2列目を形成。同大会に出場できなかった三銃士はベンチスタートだった。前半は守備を固めてくる相手に苦戦。「仕掛けてくれ」と森保監督から送り出され、中島らの投入で流れが変わった。

1月にポルトガル1部ポルティモネンセからカタールへ日本人最高額の移籍金約44億円で移籍。周囲から都落ちと言われても新天地にカタールを選んだ。名将モウリーニョ監督の右腕と言われるファリオ監督の下で成長を確信。「より速い判断が必要。速い判断の中での精度とかラストパス、ドリブルのスピードは日々勉強になっている」と攻撃センスに磨きをかけた。

この日はリフティングしながらゴール前に迫るなど「楽しくサッカーをして勝てるようにと思っていた」。悲愴(ひそう)感はなく、無邪気に笑う姿が目立った。

背番号は8。誰もが憧れる日本代表の10番をつける予定だった、1月のアジア杯は右下腿(かたい)の負傷で離脱した。中島の不在が響き日本は準優勝。今ではトップ下を務める南野が「翔哉がボールを持つと攻撃のスイッチが入る」ほどの存在になった。今回も10番を香川に譲ったが「番号よりプレーで示す」と有言実行の一戦となった。

森保ジャパンも新時代に入る。次は6月の南米選手権。「うまくなりたい。もっと精度を高めていきたい」。新たな元号での主役も中島ら三銃士が担う。【小杉舞】

◆MF堂安のコメント 途中出場でいつもとは違う展開だったので、流れを変えなきゃという気持ちだった。でも、もっとできると自分自身は思っている。

◆MF南野のコメント 前半の選手たちがしっかりボールを動かして相手を揺さぶってくれたおかげで、後半仕留めることができた。結果的に勝利できて良かったです。

<日本代表国際Aマッチ元号関連アラカルト>

◆昭和と平成の戦績 昭和の勝率(白星率=勝ち数÷試合数)は4割2分3厘。平成はこの日の試合で5割1分4厘となった。負け数は107敗で並んでいたが、勝ち数は100勝以上も平成が上回る。

◆昭和最多 出場、得点数ともにFW釜本邦茂が最多。76試合の出場は歴代21位だが、昭和に限ると歴代最多75得点の釜本が1位。

◆平成最多 出場数はMF遠藤保仁が152試合で当然ながら1位。歴代2位122試合出場のDF井原正巳は昭和5試合、平成117試合となる。得点数は歴代2位55得点のFWカズ(三浦知良)が平成に限ると最多得点。

◆昭和最後 88年10月26日の韓国との第13回日韓定期戦が昭和最後の試合。国立競技場で行われ、0-1で敗れた。最後の得点は、その2試合前の88年2月2日の親善試合オマーン戦(1-1)でFW前田治(当時東海大)が記録。

◆平成最初 89年1月20日の親善試合イラン戦(2-2)が平成最初の試合。この試合で昭和最後の得点をマークしたFW前田治(全日空)が平成最初のゴールも記録。