ラモスとカズを「牛耳る」ため呼ばれたオフト監督

93年10月、イラクと引き分けに終わりW杯予選敗退。カズ(右)をねぎらうオフト監督

<平成とは・サッカー編(6)>

日本代表初の外国人監督は、平成4年(92年)に就任したオランダ人のハンス・オフトだった。当時44歳。横山兼三の後任として元ブラジル代表監督テレ・サンターナ、同アルゼンチンのメノッティとともに候補となり、日本協会の強化委員長だった川淵三郎が「プロ選手にはプロ監督、そして外国人。オフトは日本の事情を分かっていたし、マッチすると思った」と前年から交渉していた。昭和57年(82年)にヤマハ(現磐田)の臨時コーチとして来日。当時2部のクラブを2カ月で天皇杯初優勝に導いた手腕を、決勝で解説していた川淵は把握していた。

平成に入り代表監督の選任者になった川淵は、オランダ1部ユトレヒトの強化責任者に就いていた男を訪ねた。「90分間、隣に座って試合の説明をしてもらったら非常に分かりやすくてね。日本人にはない分析力だった」と戦術眼に感服。一方で年俸は周辺から調べて“最低落札価格”の2000万円で契約。「今思えば、あんな安い額で…」と笑い飛ばしたが、平成後期のザッケローニやハリルホジッチの推定2億6000万円とは時代が違った。

報酬では単純比較できないが、賭けだったのは間違いない。サッカーはもちろん、日本のスポーツ界で外国人プロ指導者が代表監督になるのは初めて。なぜ、海外から呼んだのか。「実績ある選手を説得できるのは外国人だけ」。選手、とは代表の中心だったラモス瑠偉であり、カズ。ブラジルでサッカーに命を懸けてきた2人は、川淵に「代表チームの待遇を上げてくれ」と直談判していた。「そんなこと言ってくる選手はいなかった。彼らを指導…というか牛耳るには、同じ日本人では無理だなと」。そこで「小クラマー」と呼ぶオフトに決めた。「クラマーさんが(60年に)来た時、日本人とは月とスッポンだったから」招くことに迷いはなかった。

一方で選手にはアレルギーが出た。「それまでのミーティングは、みんな監督ではなく大将のラモスに従っていた」(川淵)。そこに割って入ったオフトは「1人に頼るチームは危険」と、あえて表明。反発したラモスも、練習初日に指笛で呼ばれ「犬じゃないよ、冗談じゃないよ」と激高した。メディアにも公然と不満をぶちまけた。オフトも引かない。国立競技場の一室にラモスを呼び「もう代表に来なくて結構」と突き放した。川淵が「もしもの時、ラモスを外せるとしたら外国人」と想定した通りの一触即発も「オフトはケンカもしたけど折り合いもつけた」と実際に外す気はなかった。半年後には、オフト監督とラモス“コーチ”が2人で高木琢也を居残り指導する光景があった。

正しかったことは結果が立証した。就任4カ月後の8月にダイナスティ杯(現東アジアE-1選手権)を制すと、同11月には高木が得点王の活躍を見せてアジア杯広島大会で初優勝。戦術=自由だったチームに、今では当たり前の「コンパクト」「トライアングル」「アイコンタクト」を落とし込んだ。欧州では育成レベルの指導用語。だが、当時の日本には適当だった。「技術、体力はすぐには向上しない。理由は明らか。戦術なんだよ。中国、北朝鮮、韓国を連破できるなんて…。あり得なかった。今ある選手の能力を、いかにチームとして高めて勝負するか。これぞプロ監督」と川淵がしびれれば、都並敏史も「韓国相手に前を向いてプレーできたのは初めて」と衝撃の1年になった。

この年、ドイツに留学していた岡田武史は「帰国したら、みんなうまくなっていた」と驚いている。最終的にオフトは93年(平5)の「ドーハの悲劇」でワールドカップ(W杯)初出場を逃したが、土台は岡田ジャパンに受け継がれた。98年(平10)フランス大会で夢は現実になった。

その後は5カ国6人が日本を率いた。自国開催のW杯日韓大会には「フラット3」のトルシエで挑み、初の16強。神様ジーコは「黄金の中盤」でサッカー人気を不動にし、オシムからは「ポリバレント(多様性)」を学んだ。ザッケローニは「インテンシティ(プレー強度)」を選手に求め、13年(平25)にFIFAランクを史上最高の9位へ。アギーレは八百長問題で去ったものの、柴崎岳らを抜てき。ハリルホジッチは「デュエル(決闘)」と機関銃のように、まくし立てた。

そして令和の新時代、森保一へ。岡田も西野朗もW杯ベスト16に導いたが、ともに途中就任。W杯後の4年スパンで託された日本人は森保が初めてだ。オフトの下で「ドーハの悲劇」を経験した50歳の元ボランチが、かじを取る。川淵は「昔は外国人しか選択肢がなかったけど、日本人が育った。ようやく」と隔世の感に目を細めた。14年(平26)のW杯ブラジル大会はベスト8進出国の監督全員が自国人で、18年(平30)ロシア大会も8分の7がそうだった。ならば日本も-。究極目標の2050年W杯優勝へ、平成の土台に日本人監督が立つ。(敬称略)【木下淳】