代表との決別だった海外移籍 今や「海外組」死語に

91年、トットナム戦に勝利し喜ぶカズ

<平成とは・サッカー編(7)>

今年2月1日、アジア杯決勝のカタール戦のスタメンが話題になった。11人全員が海外クラブ所属。98年初出場したワールドカップ(W杯)フランス大会は22人全員がJリーガーだったのだから「海外組」は平成の後半で急増した。

「今は海外でプレーするのが当たり前だから」。日本人「欧州プロ1号」の奥寺康彦(67)は言う。奥寺が世界最高峰と言われたドイツのブンデスリーガでプレーしたのは77年から9シーズン。当時、海を渡るのは「日本代表との決別」を意味する一大事だった。

奥寺は25歳から34歳まで日本代表を外れている。プロ選手になったために最大の目標だったオリンピック(五輪)予選(当時五輪はアマチュアの大会だった)に出られなかったこともあるが、W杯予選などでも日本協会から招集されることはなかった。

日本代表で将来を嘱望された尾崎加寿夫や風間八宏は、80年代に入ってドイツのクラブに移籍。奥寺と同じように、その後代表には呼ばれなかった。当時は長期合宿でチーム作りするのが日本代表の常識。「短期合流では戦力にならない」という考えも強かった。

86年、奥寺が日本リーグの古河電工に復帰。プロ選手を受け入れるために、日本協会は「プロ選手(スペシャルライセンスプレーヤー)登録」を認めた。初年度は奥寺と木村和司だけ。以後プロは急増し、後のプロリーグ(Jリーグ)発足へとつながっていった。

平成の時代に入ってJリーグができ、日本選手の海外移籍は急増した。欧州各国の外国人規制が緩和されたのも大きかった。奥寺が海を渡った時、ドイツの外国人枠は2人だった。セリエAは0。世界的な選手でなければ、母国以外でのプレーなどできなかった。

セリエAが80年代に外国人枠を3人にして成功し、各国も枠を拡大した。95年のボスマン判決でEU圏内の移籍が自由化されると、南米やアジアなど欧州圏外の選手も大挙して欧州に移籍した。サッカーのグローバル化は一気に進んだ。

日本選手の意識も大きく変わった。82年に静岡学園高を中退してブラジルに渡り、プロとして活躍したカズ(三浦知良)はJリーグ開幕後の94年、セリエA初の日本人選手となった。4年後には中田英寿がイタリアに渡る。96年アトランタ五輪代表主将の前園真聖は「日本ではダメ。海外に行くことばかり考えていた」と話す。五輪やW杯を経験し、選手の心は動いた。

その後も名波浩、中村俊輔、稲本潤一、小野伸二、高原直泰ら若き才能が次々に欧州に移籍する。海外で経験を積んだ選手は日本代表の中心として活躍した。80年代までの「代表との決別」はない。逆に、選手の海外移籍が日本代表のレベルアップにつながった。

かつては「欧州内ならいいが、日本は遠くコンディションを崩す心配がある」と招集を拒むクラブもあった。しかし、国際サッカー連盟(FIFA)が選手の供出のルールを設けたことで、協会とクラブ間の交渉もスムーズになった。

06年W杯前、オーストラリア選手は100人以上が欧州で活躍していた。「個々の能力では勝てない」と思ったものだが、今や日本人の欧州組も下部まで含めれば100人超。Jリーグを経ず、高卒や大卒で海を渡る選手も増えた。さらに、欧州だけでなくアジア諸国への移籍も多い。

スポーツ庁の鈴木大地長官は、平成のスポーツ界を振り返って「グローバル化が進んだ」と話した。最も顕著なのがサッカー界かもしれない。かつて「日本は世界に勝てますか」という質問に「日本も世界なんです」と答えたカズ。海外クラブ所属選手がスタメンを占めた日本代表に、その言葉を思い出す。今や、あらゆるスポーツで日本と世界の垣根が消えつつある。

「日本選手が認められ、求められている証拠。素晴らしいことだよ」。日本代表のこと、仕事のこと、家族のこと…、40年以上前に大きな決断でドイツに渡り「東洋のコンピューター」として活躍した奥寺は言った。昭和から平成、令和。「海外組」という言葉が死語になるのではと思えるほど、サッカー界の変化は目まぐるしい。【荻島弘一】

(敬称略、この項終わり)