【岡田武史論3】W杯南ア大会16強後、新天地の中国での挑戦「新しいチャレンジをしないと」

思いを語る岡田武史氏(撮影・横山健太)

<岡田武史論(3) 日本で最もW杯を知る男 代表監督はクレージージョブ>

日本で唯一2度のワールドカップ(W杯)指揮を誇る岡田武史元監督(66=日本サッカー協会副会長)が、約40年にわたって密着してきた日刊スポーツの歴代担当記者と「岡田武史論」を展開した。第3回は14年ブラジル大会を担当した菅家大輔記者編。

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岡田武史氏(66)の歩みを語る上で欠かせないのが、中国での挑戦ではなかろうか。W杯南アフリカ大会16強進出から1年数カ月後、新天地を中国1部リーグの杭州緑城に決めた。これまでJクラブや日本代表監督として国内外の舞台で勝負を挑んできたが、中国ではピッチ内だけではなく、文化や習慣、民族性との勝負が待ち構えていた。

岡田氏 中国を選んだのは、自分の性格だね。新しいチャレンジをしないと気が済まないタイプだから。W杯にも2回出たし、Jリーグも2回優勝した。次に何かないかなと思っていたら中国から話が来て。別に「日本のために」とかではなく、何となく面白いし、自分にとっては新しいチャレンジだった。中国が発展するのは分かっていたから、その国を中から見てみたいというのもあった。

11年秋、中国スポーツ界の要人(当時の中国国家体育総局蔡振華副局長)らが視察団を組んで来日した時、「中国で監督をする気はありますかと聞かれて、ありますと答えていた」と振り返る。視察団がその情報を中国の各クラブにファクスで展開したところ、数クラブから打診があったという。

岡田氏 2部を含めて6チームくらいから話が来た。ただ、(視察団が)ファクスを流す前にオファーをしてきたのが杭州緑城(現浙江緑城)だった。ハンチントン(米国の政治学者)という人が、現代社会において文明の衝突により紛争が起こると予言している。当時は自分が中国に行くことで国境とか文明とは別にサッカー仲間というボーダーを作り、何か役に立てないかなという青い思いがあった。

日本を98年フランス大会でW杯初出場に導き、10年南アフリカ大会では国内開催以外のW杯で初の決勝トーナメント進出も果たした。99年に札幌の監督に就任した際、W杯を経験した日本人監督がJクラブの監督になるのは、もちろん初めてだった。「史上初」という扉を開け続けてきた岡田氏が、日本代表監督経験者かつJ1優勝監督としては、「史上初」の海外クラブの監督就任を決断した。

待っていたのは、サッカーの指導以前に、50の民族からなる文化や習慣との向き合いだった。「人脈」で物事が決まる中国社会特有の事情がはびこるクラブ内を、日本代表監督時代から繰り返す「私心なくチームが勝つためにどうすればいいかで決断する」という、これまで通りの手法を貫き少しずつ変えていった。

中国挑戦前に、親交があった京セラの創業者、故稲盛和夫さん(享年90)からかけられた言葉も心に響いた。「日本と同じことをやった方がいいですよ」。中国でも人気が高い稲盛さんからの言葉は、中国で監督を務める上で、間違いなく後押しになった。

岡田氏 杭州緑城では日本と同じことをやった。「お前たち(選手)を信じる。日本人と同じサッカー仲間として接する」と伝えた。中国のスタッフからは「中国人を信じても…」と言われたけど、信じた。1度は過ちを許すけど、2度目は許さないから、2度裏切るなと。試合前日にホテルに前泊したら、ほとんどの選手が(抜け出して)ホテルにいないこともあったくらいだから。

規律を2度破り、解雇した選手も複数いた。スタッフのコネクションに依存した選手獲得をやめてスカウトを置いた。選手起用に介入しようとした上層部とは辞任する覚悟を示した上で、意見をぶつけ合った。全ては私心を捨てて勝つ集団を作り上げるためだった。

岡田氏 中国は簡単にはいかない。2年かけてある程度できたけど、最初から結果を残すとなると大変。苦労する覚悟が必要。自分も大変だったけど、面白かったよ。

中国での挑戦は2シーズンで幕を下ろしたが、中国での経験と、W杯ブラジル大会での日本代表の惨敗を現場で目の当たりにして抱いた日本サッカーへの危機感が、FC今治の経営という次の「新しい挑戦」への原動力となった。

岡田氏 ザッケローニは彼が日本代表監督になる前から知っていて、仲が良いんだけど、あの時(W杯ブラジル大会)の日本代表は本当に良いチームだった。ただ、そんなチームでも1次リーグ初戦のコートジボワール戦で途中からドログバが出てきてペースを握られると、何もできなくなった。想定外が起こると選手同士で対応できない。そこが日本の一番のウイークポイントだと思う。

FC今治の経営をスタートさせ、「岡田メソッド」を苦労の末に開発した。W杯を経験した日本人監督がJクラブの経営者になるのも、もちろん初めて。今は経営者としてピッチ内外を包括的に見渡し、日々を慌ただしく過ごしている。

振り返れば、常軌を逸したプレッシャーがかかるため「クレージージョブ」と言われる自国の代表監督を2度も経験した岡田氏の人生は「クレージージャーニー」なのかもしれない。自ら責任を背負い、決断し、実行する。中国で大いなる挑戦に打って出た時だけでなく、日本代表を率いた時、札幌や横浜を指揮した時、そしてFC今治の経営者としての現在もそうだ。「私心」を絶ち、最善を尽くすため腹を決めて前進し続ける姿勢を貫く。

だから、人一倍理解できるのかもしれない。誰も経験したことがない重圧を背負い、日本人としてオリンピック(五輪)代表とA代表の監督を兼任し、自国開催の東京五輪に挑みながら、W杯カタール大会アジア予選を突破してみせた森保監督の気持ちを。

「W杯は結果」。取材で何度もその言葉を聞いてきた。実際、岡田氏率いる日本代表がW杯南アフリカ大会で16強に進出した後、日本人の海外進出が一気に加速した。「日本人を認めさせるためには時間がかかる。それを認めさせるために代表が勝つことが大事なんだ」。道なき道を歩む森保監督が新たな扉を開いた時、日本サッカー界が次のステージへ進む。1カ月半後、カタールの地でそんな瞬間が訪れることを、岡田氏は待ち望んでいる。クレージージョブを知り、その結果の先に起こりうることを体感している先輩として。【14年ブラジル大会担当=菅家大輔】

◆岡田武史(おかだ・たけし)1956年(昭31)8月25日、香川県生まれ。大阪・天王寺高-早大-古河電工(現J2千葉)。90年に引退後は指導者となり、97年10月に日本代表コーチから監督へと昇格。98年W杯フランス大会を指揮。札幌、横浜の監督を経て07年に日本代表監督に再登板した。14年11月にFC今治のオーナーに就任し、チームを経営。日本サッカー協会(JFA)副会長。

◆クレージージョブ(Crazy Job)自国のサッカー代表監督を務める激務が欧州でこう表現される。常軌を逸した仕事。岡田氏がフランス大会を率いる前、名将アーセン・ベンゲルから授かった言葉。家族に危険が及ぶほど批判される覚悟がいる。