【W杯連載】王道貫く森保一の選択、奇策なし対話重視「神は敬えど頼らず」友人市原義明氏の証言

W杯出場が懸かるオーストラリア戦前の2月8日、伊勢神宮を参拝した森保(左)と市原(敬称略)

<悲劇から歓喜へ 森保ジャパンinドーハ(1)森保一監督>

4年に1度の精鋭を紹介する連載「悲劇から歓喜へ 森保ジャパンinドーハ」の第1回は、運命のリストを読み上げる森保一監督(54)。プライベートで最も仲の良い親友という、京都・宇治市を中心にタイヤ・ホイール専門チェーン「オートック」を展開する市原義明社長(61)の証言を通し、日本初の8強を目指す森保監督の「王道」に迫る。(敬称略)

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取材の始まりは森保からの紹介だった。日本人初のAと五輪の代表監督兼任が決まった後、両親ら周辺を当たっていると「普段の僕を最も知っているのは、この方ですよ」。そう名を挙げたのが市原だった。親交は四半世紀に及ぶという。

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出会いは98年だった。森保が広島から京都へ期限付き移籍し、サンガを支援していた市原と知り合った。在籍は1年間だけだったが「自分と違ってビール1、2杯しか飲めへんのに。なぜか気が合った」。単身赴任だった森保から頼られ、気付けば週1回のオフは必ず食事に行く仲になった。

広島に戻り、仙台へ移った後も交流は続く。疎遠になっていれば、人生は変わっていたかもしれない。03年末、市原は森保から引退の報告とセカンドキャリアの相談を受けた。2択だった。指導者転身か進学か。

高校卒業後、マツダの子会社からプロになった森保は、学び直しのため早大、もしくは京都教育大への受験を考えていた。市原は即答した。「勉強はいつでもどこでもできる。現場の経験を積んだ方がええ」。自身も最大手ブリヂストンで腕を磨き、独立していた。

森保は広島の強化部コーチを選ぶ。まずは草の根、小学生の指導から。10年前の「ドーハの悲劇」を知る男でも多分に漏れず収入が減る中、市原は当時36歳の元日本代表を自社広告に起用した。3年契約だった。

「ラジオCMに出てもらったんやけど、棒読みも棒読み。今の会見と一緒や」

そう笑い飛ばしつつ、元選手との契約について「人柄や姿勢が当社の目指すイメージに合致」と回想した。もちろん新たな門出を支えたい思いがあった。

誰しも抱く引退後の不安がやわらぐと、森保の本業も安定した。契約最終の06年、U-19日本代表コーチとしてアジア選手権で準優勝。07年に香川真司や内田篤人らとU-20ワールドカップ(W杯)を経験し、古巣広島のコーチに招かれた。森保は感謝する。

「代表やクラブのレギュラーではなくなると周りの人は変わる。いなくなる。市原さんは反対に、選手をやめた時に近くにいてくれた。人として付き合える」

市原も「こちらこそ助けられた」と語る。11年、諸事情あって一時的に経営が傾いた。電話では明るく振る舞っていたが、わずかな声の沈みを森保は察した。「次の休み、京都に行ってもいいですか?」。当時ヘッドコーチを務めていた新潟から伊丹空港へ。「何や急に?」と迎えに行くと、到着ロビーで会うなり森保は市原の顔をジーッと見つめてきた。「何かありましたよね?」。変化を感じ取り、見逃さないのはピッチ外でも得意だった。会って話をするだけで救われた。

その年末、広島監督に就いた森保は「僕ができるのは闘う姿を見せることだけ」と12年の開幕戦に市原を招待。監督初勝利で鼓舞した。1年目でいきなり初優勝も果たし、全選手のサインを集めたユニホームも贈った。「不可能はありません」と。戦い抜く姿に市原は「原点を思い出して」働きづめ、気持ちに応えたい一心で会社を立て直した。

17年夏、就任6年目の森保が成績不振で広島監督を退任した時も驚かされた。関わる人への申し訳なさは口にしつつ「ようやく勉強できます」と笑顔で「クビとは思えへんな」と笑い合った。すぐ単身で渡欧し、ドイツやイングランドで視察。その最中に東京五輪の代表監督就任が決まった。

J1クラブから2倍超の年俸で誘われていたが、日の丸を選択した。帰国後、夫婦同士で岐阜の白川郷へ旅行した際、散歩しながら尋ねると「お金じゃないですよね」。市原は振り返った。「日本人であること、サッカー界に貢献することを考えたら条件なんて二の次やと。あの言葉が森保一を表す全てやなと思う」。

「お金」といえば別の逸話もある。市原が明かす。「時効やから初めて言うけど、ある旅の時、車の中でボソッと『市原さんにだけ言っておきますけど、寄付したんですよ』と。ふーん…と軽く聞いたら1000万円! サッカー界の発展への思いがここまで強いとは…」。この件に関しては森保が自ら状況説明した。

「表立って言うつもりはなかったのに(笑い)。確かに、緊急事態宣言が出る前の(20年)3月でしたかね、新型コロナ禍で活動できなくなった街クラブ、少年少女を支援する日本協会の施策に寄付させてもらいました。今はピラミッドの頂点で仕事をさせてもらっていますけど、普及、育成の方々に選手を育ててもらい、紡いでもらってこそ我々は活動できる。自分もサッカーに育てられました。将来の日本の宝となる子供たちと指導者の方々の助けになれば。夢を途切れさせないように、微力ながら」

実際、旅先でレンタカーのハンドルを握る市原が森保から「ここ寄りたいです」と頼まれるのは、いつも地域のクラブや競技場だった。そんな姿に市原の支援も熱を帯びた。東京五輪、W杯アジア最終予選など勝負の前後には、監督が心を整える手助けをしてきた。

森保が好む宮本武蔵の名言「神仏を尊びて神仏を頼らず」は、かつて市原が伝えたものだ。神頼みではなく、自ら行動すること、こそ大切。一方で今年2月には三重・伊勢神宮へ参詣した。勝てばW杯出場、負ければ敗退危機に陥る敵地オーストラリア戦の前。市原は「普段は自分が9割5分しゃべっているのに、あの時は森保の口数の方が多くて。これは相当重圧がかかっとるな」と感じ、気分転換させるべく誘い出した。

おはらいを終えると、雑念が消えたように見えた。「穏やかな、本当にスッキリした顔に戻っていた」。森保も「心が洗われるというか、無駄な考えが取り除かれた」。翌月、はたしてオーストラリアを破り、予選を突破した。前回W杯から全試合を率いて本大会に導いた日本人は初だった。

「本当に自分(が監督のまま)でいいのだろうか」

「ダメなら切ってくれた方が日本サッカーのためになる。より良くの判断を同情で遅らせてほしくない」

森保はW杯切符を得た翌日に初めて明かしたが、家族、協会、そして市原には打ち明けていた。「東京五輪で4位だった後、最終予選で2敗目を喫した後、の2度かな」。覚悟を知り、批判に立ち向かう魂を見てきただけに感慨深かった。

「彼には『覇道ではなく王道を行ってほしい』とお願いしてきたんでね。自分を成長させる唯一の条件やと」。覇道とは武力や権力で、王道は仁徳で政治をすること。後者を貫く森保は選手との対話を重視した。

「市原さんの生きざまを見て学んだことは、まさに『王道を行く』。小手先、その場しのぎではなく会社や地域、仲間のために筋を通す。ベースを持つ大切さを教わった。経営者の精神は我々の仕事にも生きる」

10月下旬。2人は再会し大会前最後の食事をした。

市原 やり尽くした者にしか、たどり着けない境地に達したような。まさに一片の悔いなし。目標や勝ち負けは当然あるけれど、日本人の誇りを胸に戦うだけだと。4年半も日本のために仕事できた感謝、地域の方々あっての日本代表と話していた。だからメンバー発表や本戦が迫っても変な高揚感や緊張感は皆無。W杯の後、どこへ旅行に行くかの話で盛り上がったよ。

森保 (18年7月の)就任会見で「感謝と覚悟を持って職責を全うしたい」と言いましたが、今、どちらの気持ちも膨らんでいる。サッカーファミリーがいなければ我々は活動できないと、あらためて感じます。市原さんだけでなくサポーターの皆さん、環境づくりなど支えてくれた方々全てに感謝し、恩返しするための結果を必ず出したい。「神は敬えど頼らず」で本大会も全力で戦ってきます。

8歳下の盟友は今日、W杯メンバー26人を発表し、決戦の舞台へ向かう。市原は、行かない。森保からチケットやドーハのホテルを用意すると招待されたが、断った。「この(タイヤ)業界は11月から12月が繁忙期でね。この間だけは何があろうと現場に立つと決めている。弟のような友やけど、森保は森保、自分は自分の仕事を全うするだけやから」。守ってきた2人の約束。王道の行く末は日本から見届ける。【木下淳】