ラモス瑠偉氏がゲキ「新しい景色がベスト8なんて、なめとんのかと。まずは優勝と口に出すこと」

ドーハの悲劇から30年を振り返るラモス瑠偉氏

<ドーハの悲劇30年~歓喜からW杯優勝へ~・番外編>

目指すのはW杯優勝だ-。かつて日本代表の中心選手として森保監督とともにW杯に迫ったラモス瑠偉氏(66)が、ゲキを飛ばした。AFC年間表彰式が行われたカタール・ドーハの地で味わった「悲劇」。負けるべくして負けた日本が、勝つべくして勝てるようになった30年を振り返った。【取材・構成=荻島弘一、岩田千代巳、岡崎悠利】

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-ドーハの悲劇から30年、日本は強くなりました。

ラモス 次のW杯では歴史をつくってほしい。新しい景色がベスト8なんて、なめとんのかと。優勝を狙っていけと。ベスト4、いや決勝にも行ける。ベスト4まで行けば、何が起こるか分からない。まずは優勝と口に出すこと。やってやろうと思うこと。

-ここまで強くなったのは、なぜだと思いますか。

ラモス 簡単なこと。経験ですよ。私たちの時は経験0だった。誰も世界に出ていない。アンダー世代の世界経験もなかった。私たちの後に中田(英寿)が出て、みんなが続いた。今はそれぞれのクラブでレギュラーとして活躍している。たくましくなって、プロ意識も強い。久保(建英)の顔も大人になった。今のメンバーは最高だよ。

-30年前は選手たちの意識も足りなかった。

ラモス 全然ダメ。強い気持ちを少しでも持っていたのは柱谷(哲二)や松永(成立)らベテランだけ。若い選手は覚悟が足りていなかった。カズはあったかと思うけど、長谷川(健太)でギリギリ。

-イラク戦の前に韓国に勝って、浮足立ったところもあったのでは?

ラモス 「韓国に勝つために来たんじゃない」と頭にきた。翌日の練習で、選手が記者と笑いながらボール回しをしていた。みんなW杯出場が決まった気でいたんだ。柱谷に言った。「1つの戦いに勝ったけれど、まだ戦争が待っているんだ」って。オフト(監督)がカツを入れてくれたからよかったけど、あのままだったらイラクにボコボコにされていたよ。

-負けるべくして負けた部分もあった。

ラモス 日本はうまい選手はいたけれど、心が足りなかった、あとは選手層。あのチームは左サイドの攻撃がカギだった。(サイドバックの)都並と私、カズで崩していたから。でも、その都並がケガ。勝矢(寿延)も頑張ったけれど代わりにはなれなかった、もし都並がいれば、W杯に行けていた。

-やはり、ショックは大きかった。

ラモス W杯出場を決めたら代表は引退するつもりだったし、私の仕事は日本をW杯に連れていくことだと思っていたから。ショックで、その後のことは何も覚えていない。帰ってすぐにヴェルディの試合があったけれど、家から出られなかった。

-でも、日本サッカーにとっては貴重な経験に。

ラモス 間違いない。ただそれだけじゃない。オフトが来て、アジア杯で優勝できたからW杯予選で戦えた。その前の横山(謙三監督)さんが若手を使い、キリン杯で優勝したのがきっかけ。さらに種をまいた人がいる。メキシコ五輪の釜本(邦茂)さんや杉山(隆一)さん、そして奥寺(康彦)さんも忘れちゃダメ。

-歴史があったから、今がある。

ラモス 日本リーグがあったから、Jリーグがある。日本代表も簡単に強くなったわけじゃない。ドーハの悲劇は宿命だったと思う。誰かのミスでもないし、責任でもない。まだ日本にはW杯は早いぞ、っていうことだったんでしょう。

◆ドーハの悲劇 1993年(平5)10月28日、カタールの首都で行われた94年W杯米国大会アジア最終予選の第5戦(最終)イラク戦。勝てば悲願のW杯初出場が決まる中、前半5分にFWカズが先制。暑さ、深い芝でパスを回せない状況の1-1で迎えた後半24分、FW中山のゴールで勝ち越したが、ロスタイムに入って17秒後、相手の右ショートCKから失点して2-2とされ、得失点差で韓国に上回られて出場権を逃した。日本時間の午後10時15分キックオフと遅かったが、テレビ東京史上最高視聴率48・1%を記録した。

○…ドーハの悲劇では、試合終了の瞬間、背番号「10」を背負ったラモス瑠偉が座り込み、ぼうぜんとしたまま動けなくなった姿があった。あれから30年を経て、座り込んだラモス氏をイラスト化したグッズが販売された。イラストと「DON’T FORGET THE DOHA TRAGEDY」と記されたTシャツとパーカーで「KEY LEGEND オンラインショップ」で発売されている。ワールドカップ(W杯)にはあと1歩届かなかったが、サッカー弱小国だった日本を東アジア王者、アジア王者に導いた功績も含め、日本サッカー発展に貢献したシンボルとして商品化された。