<日刊スポーツ:1998年11月12日付>
プレーバック日刊スポーツ! 過去の11月12日付紙面を振り返ります。1998年の28面(東京版)は、最年長Jリーガーとして活躍してきた川崎MFラモス瑠偉が引退を決意したことを報じたものでした。
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Jリーグ川崎のMFラモス瑠偉(41)が、スパイクを脱ぐ。最年長Jリーガーとして活躍してきたラモスは、10日までに現役引退を決意。14日の最終節・柏戦(柏)をラストマッチとすることを家族や親しい関係者に伝えた。1977年(昭52)にブラジルから来日して22年。89年(平元)に日本に帰化して日本代表としても活躍し、卓越したテクニックと大胆な発言でファンを魅了した「サッカーの伝道師」が、ついにピッチに別れを告げる。
固い決意だった。「もう(引退する)時が来たんだよ」。体力に自信がなくなったわけではない。まだできる、という自負もある。しかし、気持ちはボロボロだ。来季、プレーしても、今季以上にできるとは限らない。チームの状態も良くはない。だからこそ「未練はない」と強く言った。
引退は、日本がW杯初出場を決めた昨年11月から頭にあった。年賀状には「ラストイヤーを見てください」と書いた。最大の夢でもあるW杯出場を区切りにしたかった。しかし、願いはかなわなかった。「Jリーグ優勝のために全力を」と考え、プレーを続けてきた。
最終的に決意したのは7日の鹿島戦後。今季最高といえる試合で胴上げを阻止した。ラモスもジョルジーニョを完封する活躍。交代した後に1-2とVゴール負けこそしたが、満足だった。「やれば、あそこまでできる。でも、チームはバラバラだし、選手も気持ちが入らない」。悔しそうに、寂しそうに話した。
ラストマッチは、14日の柏戦。シーズンは12月からの天皇杯まで続くが「最初からJリーグに全力を尽くすつもりだった」。最後の試合に気負いはない。「これまで支えてくれた家族とファンに、いい試合を見せたい」と淡々と話した。
今後は、サッカーの普及と指導に努める。これまでも、全国各地での少年サッカー教室などで、競技の楽しさを伝えてきた。「中途半端にはできない。2002年までが勝負だ」。将来は、Jの監督を務めたい気持ちもある。そのために必要な資格取得も目指す。今年いっぱい休養し、年明けから現役時代と変わらぬ闘志で第二のサッカー人生に走り出す。横浜Fと横浜Mの合併、各クラブの経費削減と暗い話題の多いJリーグ。だから「日本サッカーのために」と誓う。
観客もまばらな日本リーグ時代、子供たちはその驚異的なテクニックを見てサッカーの魅力を知った。帰化してからは、代表とW杯の価値を伝えた。歯に衣(きぬ)着せぬ発言で、誤解を招くこともあった。しかし、それも日本サッカーを思えばこそだった。「言いたいことは言わなきゃダメ」は、ラモスの口癖でもあった。
日本を愛して帰化し、サッカーを愛して41歳までプレーした。引退しても、その心が変わることはない。「日本人以上に日本人の心を持つ」といわれたブラジル生まれの日本人ラモス瑠偉。日本サッカーの歴史に名を刻むMFが、22年間駆け回ったピッチを去る。
☆ラモス語録☆
「正直言って、ブラジルの草サッカーよりひどいと思った。ただ蹴って走るだけだもの」(77年10月10日、初の日本公式戦デビューとなった2部リーグの帝人松山戦を終えて)
「ウソでしょう。相手の体にも触っていないよ。日本も日本人も嫌いになったよ」(78年1月14日の日産戦で退場処分となる。その後、1年間の出場停止という日本リーグ初の厳罰を受けて)
「もう最高の幸せ。今年も得点王を狙う。そして読売と日本サッカーの発展に貢献したい」(84年6月30日、初音夫人との挙式を終えた)
「日本代表入りは最高の喜び。でもユニホームに日の丸がついていないのが残念だよ」(90年8月に北京アジア大会の日本代表に初抜てきされて)
「金額的には満足していない。若い選手たちのためにも僕が頑張って給料を上げなくちゃだめだ」(92年6月に読売と推定年俸1億1000万円の契約を結んで)
「(レフェリーが)あんなヘタじゃやってられないよ。三菱のPKもとっていない。何よりお客さんに失礼だよ」(92年9月12日に行われたナビスコ杯三菱戦でJリーグの退場第1号になって)
「日本のサッカーの新たな歴史がスタートする。それに参加できるだけでもうれしいね」(93年5月15日のJリーグ開幕を直前に控えて)
「いい夢を見させてもらった。これが人生だ。神様が試練を与えてくれた。もう代表からは引退する」(93年10月29日、米国W杯アジア最終予選で本大会出場権を逃して)
「(加藤)久ちゃんのために何とかしたかった。そのためなら命を捨てても惜しくないと思った」(94年12月2日のチャンピオンシップでJ2連覇を決める決勝ゴールで広島をねじ伏せて)
「これが本当の最後のつもりでやる。今回の代表は僕の人生で一番大事に考えている」(94年12月12日、加茂監督に約1年ぶりに代表合宿に招集されて)
「新しい(レオン)監督とは感覚、考え方がまったく違う。このままチームに残っても対立が起きる。そうなるとみんなに迷惑をかける」(96年5月3日、京都への電撃移籍を発表して)
「ヴェルディから戻ってくれと言われたときは本当にうれしかった。今は一日一日頑張るだけだよ」(97年8月18日、川崎復帰決定後に約1年ぶりに練習場に現れて)
「まるでJリーグの気分でダラダラ戦い、中学生みたいなミスをする。城の笑っている姿は見たくないよ。タレントじゃないんだから」(今年6月20日、NHKでW杯の日本-クロアチア戦を解説して)
◆ラモス年表◆
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年・ 月・ 日 ラモスの来日からの歩み
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77・ 4・29 読売の与那城監督に誘われ来日し、読売入団
10・10 2部の帝人松山戦で公式戦デビュー。初ゴール決める
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78・ 1・14 日産戦で暴走行為で退場。1年間出場停止の厳罰処分
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79・ 4・ 1 1部開幕戦対古河で復帰。日本リーグ初ゴール決める。この年得点とアシストの2冠王に輝いた
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81・ 8・ 1 都内でバイク事故起こし左足複雑骨折で3カ月入院
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83・11・27 最終フジタ戦で同点。逆転ゴール連発し初Vに貢献。2度目の得点王になる
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84・ 6・30 清水初音さんと結婚。
11・ 3 古河戦の乱闘騒動で翌3月まで出場停止処分に
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85・ 2 - 一時帰国時にサンパウロFCに誘われるも断る
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86・ 9・14 日本リーグ選抜の主将に抜てきされる
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88・ 3・17 法務省法務局に帰化申請
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89・11・22 日本への帰化が決まり日本人ラモス瑠偉が誕生
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90・ 9・26 北京アジア大会バングラデシュ戦で日本代表デビュー
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91・ 5・21 表彰式で移籍表明したが3週間後に一転残留
6・17 日本リーグの90年度年間最優秀選手に
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92・ 3 - 最後の日本リーグを2連覇で締め、連続MVPに
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93・ 5・ 5 W杯アジア1次予選スリランカ戦で代表初ゴール
10・29 W杯最終予選で本大会出場逃し代表からの引退を表明
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94・ 1・28 川崎と3年4億5000万円で契約。将来の幹部確約
12・ 8 加茂新監督の日本代表に1年ぶりに復帰
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95・ 1・ 9 インタコンチネンタル杯で左太もも肉離れで離脱。
8・10 ブラジル戦で1-5完敗。ラモス最後の代表試合に
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96・ 5・ 3 京都へ1年9カ月契約で移籍決定。川崎と初めて離別
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97・ 8・15 川崎への電撃復帰決まる。低迷する古巣に戻る
◆ラモスの年度別成績◆
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年度 所属 試合 得点 シュート アシスト 警告 退場
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93 川 崎 30 4 29 11 6 0
94 〃 26 3 26 9 5 0
95 〃 23 2 24 7 3 0
96 〃 9 0 4 0 1 0
京 都 10 0 8 1 3 1
97 〃 10 0 8 3 2 0
川 崎 10 0 5 2 1 0
98 〃 28 0 9 4 3 0
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計 146 9 113 37 24 1
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【注】98年は第2ステージ第16節終了時。日本リーグ時代(78~92年=読売)の通算成績は210試合69得点65アシスト
☆ラモス瑠偉メモ☆
◆生まれ 1957年2月9日、ブラジル・リオデジャネイロ出身。本名はルイ・ゴンサウベス・ラモス・ソブリーニョ。愛称はカリオカで、リオっ子の意味。
◆来日 77年に読売(現川崎)の日系2世選手だったジョージ与那城氏の誘いで来日した。足が長くてやせている体つきから、ついたニックネームが「エンピツ」だった。
◆ミスター読売 日本リーグ2部に入り、だった読売を強くするため、練習に専念。日本リーグ5度、天皇杯3度の優勝に貢献。得点王2回、アシスト王3回、MVP1回。
◆帰化 ほれ込んだ妻初音さんのために「日本人になる」と決意。89年11月に帰化した。普通の日本人以上に、大和魂を燃やすプレーを見せる。日本代表として32試合出場、1得点。
◆Jリーグ 川崎↓京都↓川崎と移籍。川崎の93、94年の2連覇に貢献し、ベストイレブンに選ばれる。
◆サイズ 181センチ、69キロ。
◆家族 初音夫人(39)と長男ファビアノ君(13)長女ファビアナさん(10)。
※年齢、表記などは当時のもの