なでしこジャパンの先駆者が語る「運命のいたずら」

ボールを手にし、熱く指導する常葉大橘サッカー部の半田監督

 静岡県内スポーツ指導者へのインタビュー企画「導く」の第19弾は、常葉大橘女子サッカー部の半田悦子監督(52)です。現役時代は、女子日本代表なでしこジャパンの先駆けとしてアジア大会、W杯、五輪で活躍。前編ではサッカーとの出会い、長く続けることになった縁など、選手としての歩みを振り返ります。

 

 ◆中学では陸上部

 清水に生まれ、サッカーが身近な環境で育った。かけっこが得意で、おてんばな少女。スポーツを始めるならミニバスか、サッカーか。サッカーをしていた兄の影響で、入江小女子チームに入った。清水では、女子チームの市内リーグ戦が開催されていた。

 「清水だったから自然とサッカーがあって、自然と始めました。私は、男の子とサッカーを一緒にやったことがないんです。清水に生まれたからこそ、違和感がなかった。友だちと遊ぶような感覚で、休みもなく毎日行っていました」

 中学に進み、遊びの延長だったサッカーではなく、陸上部に入部。中長距離の選手として活躍した。

 「もともと小学生のサッカーで、足が鍛えられていたんですね。顧問の先生もすごく熱心に指導してくれました。サッカーで将来何かになろうなんて思っていなかったので、陸上を続けるつもりでした」

 中3の夏、陸上部を引退。その後、小学校時代の恩師、杉山勝四郎氏(現清水第八スポーツクラブ代表)が立ち上げた清水第八スポーツクラブに入った。将来、ともに日本代表でプレーすることになる本田美登里氏(53=現長野パルセイロレディース監督)、木岡二葉氏(52)ら仲間たちから「遊びにおいで」と誘われたことがきっかけだった。1980年3月、中3で第2回全日本女子サッカー選手権(現在の皇后杯)で優勝。快足FWとして名をはせた。清水西に進学して陸上を続けるつもりだったが、高1の6月、本格的に組織された初めての日本代表に招集された。香港で開催されたAFC女子選手権(現アジア杯)出場。サッカー人生が動きだした。

 「運命のいたずらですね。高校でも陸上をやるつもりでしたが、日本代表の1期生になった。人生で初めての海外で、日本代表。清水第八が優勝していなければ、代表に選ばれていなかっただろうし、陸上を続けて体育の先生になっていたかもしれない。優勝して、代表に選ばれたことでつながった。それがなければ、今の私はいないですね」

 ◆日本女子代表初得点

 初めて海外勢と対戦し、圧倒された。攻められ続け、FWは前で立っているだけ。日本では観客がいなかったが、香港のスタジアムは満員だった。文化の違い、言葉の違い、味わったことのない経験の連続だった。それでも予選リーグ3試合目のインドネシア戦で、日本女子代表としての初得点を自らが決めた。試合も1-0で初勝利を挙げた。

 「1勝した時の1得点を決めたのが私と言われますけど、全く記憶がないんです。あまりにも攻められて、世界はこんなに強いんだというショックが強すぎた。代表にまた選ばれたい、もっとうまくなりたいと思ったスタートでした」

 取り巻く環境も変化した。90年には、女子サッカーがアジア大会正式種目になり、銀メダルを獲得。男子サッカーのラモス瑠偉氏、三浦知良(現横浜FC)、女子バレーボールの大林素子氏ら有名選手と同じ選手村に入った。当初、遠征は自腹だったが、協会から日当が出るまでになった。

 「続けていくうちにアジア大会の正式種目になり、W杯が決まり、五輪が決まった。『今度、正式種目になるらしいよ』と聞いて、『みんなで出てみたいよね。じゃあ、頑張ろうよ』と。手の届きそうなところに目標がありました」

 短大卒業後は、静岡第一テレビの関連会社に就職。代表の遠征で欠勤する際は特別有給扱いだったが、23歳で退社。環境も変えるため、小3から指導を受けてきた杉山氏の元を離れ、清水FCに移籍した。翌年チームは鈴与清水となり、鈴与の社員になった。広報課に所属し、チームマネジャーの役割も果たしていた。仕事は午前のみで、午後はジムに通うなどサッカーに集中できる環境だった。

 「周りの方が、サッカーを続けられる環境をつくってくれていたので、すごく感謝の気持ちが強かった。だから、長く続けていられたと思います」

 2度のW杯にも出場。96年にはアトランタ五輪に出場した。メディア露出も増え、地元で壮行会が行われるほどお祭り騒ぎだった。当時30歳。すでにベテランの領域だった。

 「ずっとベテランと言われていたし、あまり試合に出られなくなった。五輪に出たら、もうこれ以上の大会はない。やり切った気持ちでした」

 その後の人生も、サッカーに導かれるように進んだ。明日7日の後編では、指導者を志したきっかけ、常葉大橘の監督としての目標などを語っている。【保坂恭子】

 

<半田監督の歩み>

 ▼1965年(昭40) 5月10日、清水市(現静岡市清水区)に生まれる。小3で兄の影響を受け、入江小女子サッカーチームへ。

 ▼80年 清水第八スポーツクラブに所属し、全日本女子サッカー選手権(現皇后杯)で優勝。以降、7連覇を果たす。

 ▼81年 清水西に進学。日本代表に初招集される。AFC女子選手権(香港)に出場。その後、静岡英和女学院短期大学へ進学。

 ▼89年 第一ビデオエンタープライズを退社。清水FC(翌年から鈴与清水FC)へ移籍。

 ▼90年 アジア大会(中国)の正式種目となり、銀メダルを獲得。

 ▼91年 第1回女子W杯(中国)に出場。

 ▼95年 第2回女子W杯(スウェーデン)に出場し、8強入り。

 ▼96年 アトランタ五輪出場。現役を引退し、97年3月に鈴与を退社。代表では75試合出場19得点。

 ▼04年 常葉学園橘中(当時)の女子サッカー部監督に就任。11年から常葉学園橘高の監督に就任。

 ▼11年 女性では2人目の日本サッカー協会公認S級ライセンスを取得。