岡田武史氏語った 川口能活と日本背負った20年

10年5月、W杯日本代表練習で岡田監督(右)はGK川口の肩に手を置き話をする

サッカー元日本代表監督の岡田武史氏(62=FC今治オーナー)が5日、前日に引退発表したGK川口能活(43=SC相模原)をねぎらった。初出場した98年ワールドカップ(W杯)フランス大会で正GKに指名し、10年南アフリカ大会ではサプライズ選出。「第3GK」の立場ながらチーム主将を任せ、史上最高タイのベスト16にともに進んだ。09年には代表落選を通告するなど、数々の思い出がある守護神に感謝。今後は指導者転身に期待した。

岡田氏は「発表の前日、能活から報告の電話をもらったよ。『ありがとうございました』と言うから『いや、こちらこそ感謝したい』と返した」と明かした。「能活とは、本当にいろいろなことがあった。2度、W杯代表に選んだのも自分なら、初めて代表から外したのも自分だったから」。

言葉通りの歴史が2人にはあった。最初は正GK。加茂監督の更迭を受けて途中就任した97年のW杯最終予選途中から、川口だけを全試合に先発起用し、初出場のW杯も全3試合を託した。「当時22歳だったが、マリオGKコーチの厳しい練習についていく姿を見て」活躍を確信。記念すべき日本のW杯初戦はアルゼンチンに0-1で敗れたものの、川口は23本のシュートを浴びながら1失点に抑えた。善戦の立役者だった。

2度目の指揮となった08年も序盤は川口に頼った。ところが、同3月のW杯予選バーレーン戦でクロス処理を誤り、決勝点を許してしまう。0-1で敗戦。以降はスター選手をベンチに置いた。翌09年3月には代表メンバーからも外した。「残念だけど、外れてもらう」。静岡・磐田市内に川口を訪ね、面と向かって伝えた。「あれほど実績ある選手だからリスペクトが必要。彼に会見や電話一本では失礼だと思い、磐田まで直接会いに行ったんだ」。

川口にとって、故障を除けば実質的に初めての落選だった。半年後には右すねを骨折し、全治6カ月。「(代表外しが)ショックだったのかは本人にしか分からない。ただ、外した自分としては強い責任を当時、感じていた」。一方で、復帰まで動向を追う覚悟があった。「実は、いつかまた能活に助けてもらう日が来る予感があって。だから、外した時に『ノーチャンスじゃない』とも言葉を添えていた」。

復帰は翌10年、W杯イヤーの春先までかかった。「その間も、練習試合に出たと聞けば加藤好男(代表GKコーチ)を極秘で派遣して状態を確認した」。骨折以降、川口は公式戦に1度も出ていない。代表も09年1月が最後。それでも「批判覚悟で」サプライズ選出した。「役割を理解して、ピッチ内外で汗をかいてくれた」。食事会場では、前年のオランダ遠征で“FK争奪戦”を繰り広げた中村俊と本田を隣に座らせ、話し込む川口の姿があった。

W杯直前に連敗し、選手と陣形変更の勝負に出る前には、頼み事をした。「選手だけでミーティングしてもらえないか」。川口はうなずいたが、報告が素っ気ない。「『たいした話はしませんでした』って言われたけど、その時は自分に気をつかったんだろう。後で聞いたら、すごく前向きな議論だったと」。いわゆるザースフェーの夜。「能活には、チームを引き締めてもらい助けてもらった」。一体感を高めたチームは16強入り。だから先日、川口からの引退報告の電話に心から返した。「本当に感謝したいのはこっちだよ」。

川口がJ3相模原を通じて引退を表明した日、FC今治がJ3昇格に王手をかけた。来季、対決できたかもしれないが、岡田氏は私的な感情を胸にしまう。「以前、今治が能活の獲得に動いたこともあったんだけど、お金がね…」と笑いながら「そんな対決より彼の将来が大事。大けがも落選も経験し、人間としても大きくなった。きっと、いい指導者になる。だから、もし指導の道に進むなら(年齢的に)このタイミングでいいかもしれない」と尊重した。そして誰よりも成功を願っている。【木下淳】