夢物語を実現したカズ 負けて1面「認められた」

93年、V川崎(現J2東京V)時代、カズダンスを披露するカズこと三浦知良

<平成とは・サッカー編(1)>

Jリーグ開幕、ワールドカップ(W杯)出場、そして開催…。平成の30年で日本のサッカー界は激変した。先頭に立って変革を引っ張ったのは、もちろん「キング・カズ」。ブラジルから帰国し、読売クラブ(現J2東京V)に加入した平成2年(1990年)、当時23歳の三浦知良が目指したのは「プロリーグ成功」や「W杯出場」だけではなく「日本の社会を変える」こと。夢物語のような挑戦を、カズは成功させた。

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90年7月30日、読売クラブと正式契約し、会見したカズは言った。「日本をW杯に連れて行く」。W杯など夢のまた夢、アジアの壁は高かった。翌日の新聞には「日本サッカーの力になりたい」とある。「W杯」があまりに荒唐無稽だったので、書けなかったのだ。

「気を遣ってもらったのかもしれないけれど、僕は本気でした。日本ではまだW杯は出るものではなく見るものだというのは分かってたけど、勢いだけで言っちゃいました(笑い)」

平成元年の89年6月。W杯予選でインドネシアを迎えた。会場はピッチが泥だらけの西が丘。試合後、インドネシアの監督は会見で「日本はW杯をどう考えているんだ」と激高した。

「聞いて驚いた。その程度だったんです。ブラジルではW杯は特別。サッカーに興味ない女性も、代表が負けたら泣く。日本にサッカーファンはいたけど、社会的地位は低かった。サッカー界だけでW杯に行くのは無理なんです。社会的な出来事にならないと」

日本リーグ時代から、カズの発信力は特別だった。練習後に「今日は野球ある? 巨人戦は?」と聞かれる。「雨で中止」と答えると、用意していたネタ(原稿になる元)を話す。プロ野球一色だった新聞に、サッカーが載るからだ。そのために、毎朝新聞を読み、テレビをチェックした。発信のために努力をした。

「どんな媒体でも取り上げられないと。ラモスさんにしても、自分たちから出て行って目立つことが必要だった。今は日本代表だと取り上げてもらえる。当時は自分で話題を提供しないと。ゴン(中山雅史)なんか、今でも出てますから。本当は暗いのに(笑い)」

発信の最高峰が、サッカー史を振り返ると必ず出てくるJ元年のMVP表彰。風船が割れて、中から赤いタキシードのカズが登場した。サッカー、いやスポーツ界の常識をも覆すド派手なアピール。あれにも、カズなりの思いがあった。

「服装はタキシードに決まっていたけれど、色の指定はなかった。田原俊彦さんが10周年の時に着ていたのを思い出して。今は候補者の中から当日決まるけれど、あの時は最初から決まっていた。優勝したし、派手にいってもいいかと。生意気とも言われたけど、出る杭になりたかった」

Jリーグ誕生の波にも乗り、サッカーの認知度も上がった。その中心には、常にカズがいた。90年に帰国して、北京アジア大会(9月)の日本代表入り。カズが最初に戦った相手は日本協会だった。プロとして妥協はできなかった。

「帰国してすぐ代表に呼ばれた時、移動のため東京のホテルが必要だった。協会に聞いたら、渋谷の旅館(聚楽=現在は閉館)が定宿だと。ラブホテル街のど真ん中。僕は泊まらなかったけれど、代表の環境はまだそうだったんです」

当時プロ選手はいたが、代表の待遇はプロとはいえなかった。アマチュア選手が混在していたことも理由だが、協会にプロ化への準備がなかった。

「洗濯も自分たちでやった。一番下のゴンや井原が洗濯係。ボールも自分たちで運んだ。当たり前だったそういうものを変えなくちゃ、と思いましたね」

91年5月、キリン杯の記者会見が行われた。ホテルニューオータニの長い廊下で、後ろからカズに声をかけられた。「賞金はどうするか質問してほしい」。会見でそう聞くと、マイクを握って「選手がもらっていいですよね」。同席した専務理事の村田忠男も「分かった」と答えるしかなかった。

「僕がしつこいから、協会も困っていた。あれが初めてのボーナス。それから協会は大会に応じてランクを決めたんです。歴史だよね。(松井)大輔に『代表のルールは、大体カズさんが作った』なんて言われましたからね(笑い)」

92年には初の外国人としてオフト監督が就任し、日本代表は快進撃を続ける。8月に東アジア王者を決めるダイナスティ杯で優勝すると、10月には広島アジア杯を制覇。いずれも、MVPはカズだった。勝つたびに注目度は増した。メディアの扱いも大きくなった。

「ダイナスティの時は記者は4人でしたよね。それが、半年後のイタリア合宿では100人を超えた。Jリーグの開幕もあって、サッカーが知られるようになった。93年のW杯予選は国立も神戸(ユニバ)も満員でしたから。その前の予選は西が丘だったのに」

94年W杯米国大会の予選は、Jリーグ開幕を挟んで1次と最終が行われた。1次リーグを無敗で突破してJリーグが大ブームになる。迎えた最終予選。過去にない関心度だった。

「今、平成を振り返る取材を多く受けるけど、やっぱりドーハなんです。どうしても、そこに戻る。行けなかったけれど、W杯を多くの人が知った。50%近い(48・1%)視聴率。サッカーファンだけでなく、日本人が応援してくれた。強くならないと、W杯に出ないと、と思いました」

カズはその後もサッカーが日本の社会に浸透するように発信し、活躍した。97年にはジョホールバルのアジア3位決定戦に勝ち、初のW杯出場を決める。フランス大会直前、岡田監督の「落ちるのはカズ…」の言葉。W杯へ日本を引っ張ってきたカズの落選は、社会的なニュースになった。

「勝った時、いい時に新聞の1面になるのは、誰でもできる。負けた時やダメな時の1面は、本当に認められないと。サッカーも認められたということ。イチローさんもそうでしょ」。

サッカー自体が認められたからこそ、カズの落選が大きく報じられた。Jリーグ誕生、W杯出場、いい時も悪い時も矢面に立ってきたのはカズだった。

「日本代表だと、僕の時代は僕だった。ヒデ(中田英寿)の時代はヒデ、本田(圭佑)の時代は本田。大きな柱、すべて受け止める存在がいましたね。本田なんか『W杯で優勝する』とまで言ったから。今は、そういう選手がいない」

カズの発信もあって、日本代表の地位も上がった。カズ帰国前は「お金にならない」と代表を辞退する選手もいたが、今は誰もが代表を夢見るようになった。

「キリンカップで日本と対戦した86年、代表の人たちが誇りを持っていないように見えた。もちろん、選手は一生懸命だけど、注目されないから。僕は今でも日本代表のユニホームに憧れる。52歳でも10歳の子供でも憧れるのが代表。今回の南米選手権、行きたいですよ。本当に行きたい」

読売クラブの時代、練習取材に行けるのは時々だった。ラグビーや水泳、柔道と担当する競技が多かったからだ。「毎日取材にこられるように、サッカーだけで記者が食べられるように頑張りますよ」。その言葉が忘れられない。

「あの頃は、ラグビーの人気がすごかったから(笑い)。社会的に認められるということは、サッカーに関わる多くの人が生活できるということ。選手だけプロになっても意味はない。コーチはもちろん、記者も用具係も、みんながサッカーで食べていけないと」

平成が終わり、令和の時代が来る。もともと「元号は分からないから」と話していたカズも、殺到する取材で「平成」を意識するようになった。30年を振り返るようになった。23歳で語った「社会の中でのサッカーの地位を上げる」は間違いなく現実になった。

「ブラジルから帰ってきてから、ずっと自分がやらないとという気持ちはありましたね。僕だけの力じゃないけれど、やってきた自負はある。価値が高まったからJリーグが成功し、W杯にも行けた。29年前に思っていたことが、そうなった。今はJリーグもW杯も当たり前。でも、そうなったのはいいことですよ」

平成の時代を走り抜けたカズは、令和も変わることなくピッチを走り続ける。【荻島弘一、岩田千代巳】(敬称略)

◆三浦知良(みうら・かずよし)1967年(昭42)2月26日、静岡市生まれ。静岡学園を中退し、15歳でブラジルに渡り、86年にサントスとプロ契約。90年に帰国して読売クラブ(現J2東京V)入りし、93年にJリーグ初代MVP。国内外で移籍を繰り返し、05年7月に横浜FCに加入。日本代表では国際Aマッチ通算89試合55得点。家族はりさこ夫人と2男。177センチ、72キロ。