なでしこ1つに 準々決勝直前で見た震災被災地映像

11年7月、女子W杯で優勝し喜ぶ澤(中央)ら日本代表イレブン(撮影・PNP)

<平成とは・サッカー編(5)>

「最後に映像を見ていきましょう」。なでしこジャパン監督の佐々木則夫が言った。

2011年(平23)7月9日、女子ワールドカップ(W杯)ドイツ大会の準々決勝直前だった。相手はFIFAランク2位でW杯2連覇中の地元ドイツ。完全アウェーの試合を前に選手を後押ししようとスタッフが用意したものだ。静寂の中、画面に映ったのは3月11日に起きた東日本大震災の被災地の映像だった。涙を流す選手もいた。「あれほどモチベーションが上がった時間はなかった」。

チームは1つになった。ピッチでは主将のMF澤穂希らを中心に「みんなで戦おう」と声が飛んだ。全員で体を張り、試合はスコアレスで延長戦に突入。すると延長後半3分に途中出場のFW丸山桂里奈が決勝点を決めた。試合終了にドイツ選手はピッチに倒れ、スタンドは沈黙。現地紙は「絶対に起こり得ないことが起こった」と報じた。

勢いに乗ったなでしこは準決勝でスウェーデンを破り、7月17日の決勝では同1位の米国と対戦。2度勝ち越されながらも、延長後半12分に澤がCKから右足アウトサイドで起死回生の同点弾を決め、PK戦の末に勝利した。

最後まで諦めず、格上の相手に挑む姿に日本中が熱狂。フジテレビ系で生中継した米国戦は午前5時開始にもかかわらず、平均視聴率は関東地区で驚異の21・8%(ビデオリサーチ調べ)にも上った。なでしこフィーバーに日本列島は沸いた。その後、社会に明るい希望を与えたとして、国民栄誉賞が授与された。

世界一は苦難の道のりだった。大震災による節電で夜間の練習ができず、サッカーどころではない日々。それでもW杯は迫ってきた。DF岩清水梓は「どうなるんだろうというのはありました。その時はそれぞれのコンディションもバラバラで。W杯に向けて作り上げないといけない気持ちもあった」。大会前の強化試合は1分け2敗。本番でも1次リーグ第3戦でイングランドに0-2と完敗し、グループ2位での準々決勝進出だった。岩清水は「諦められなかったのは、震災という背景があってのこと。見えない力は間違いなくあった」と話した。

見えない力-。MF宮間あやが明かす。「大会初日にドイツに着いた時に澤さんが『この大会、勝てるかも』って言ったんですよ。『この大会じゃないと取れないよ』って。最初はピンとこなかったけど、ドイツ戦ぐらいから、そういえば言ってたなって」。当の澤は「チームがそういう雰囲気だった。だからそういう風に言えた。あの時は1試合ごとにチームがよくなっているのを感じていました」と振り返った。

思いは被災地に届いた。震災前から福島・Jヴィレッジ(広野町、楢葉町)で長く職員として働く明石重周(しげなり)が言う。「私も地元の人たちも、本当に勇気をもらった」。なでしこジャパンは「本当に身近に感じていた存在」だという。JヴィレッジがDF鮫島彩、FW丸山も所属した東京電力マリーゼの本拠地だったことに加え、毎年のようになでしこジャパンが合宿に訪れ、交流を深めていた。地元住民が使う施設の大浴場に選手が来ることもあった。「すごく近い距離だった。そんな人たちが世界で活躍して誇らしい気持ちだった」。大会後に監督の佐々木や選手がメダルを持って訪れた際は、地元住民らと抱き合って喜びを分かち合った。

あれから8年、岩清水は「日本に明るいニュースを本当に届けられ、喜んでもらえた。だからこそ今でも名前を覚えてもらえたり、あの優勝すごかったねと言ってもらえる。どの大会も記憶に残っていますが、特に11年のW杯はいまだに鮮明に覚えていますし、やはり忘れられない」。

11年の優勝を見た若手たちが続き、日本は14年にU-17W杯コスタリカ大会で、18年にはU-20W杯フランス大会で優勝し、史上初めてFIFA主催の女子全3大会を制した国となった。その足がかりとなったのが2011年だった。

そして4月20日。「もう元には戻らない」とも言われたJヴィレッジが、平成最後に再び完全営業を果たす。(敬称略)【松尾幸之介】