山形を地域LからJ1に、皆に愛された中井川氏退任

山形の選手らに胴上げされる中井川茂敏氏(2019年05月05日撮影)

盛大な、別れの花道だった。地域リーグだったNEC山形の時代からチーム運営を任され、Jリーグ参入後はGM(ゼネラルマネジャー)として、J2モンテディオ山形を2度J1昇格に導いた中井川茂敏前取締役(61)が5日、愛するチームに別れを告げた。

ホームのファジアーノ岡山戦を約束の勝利で飾ったイレブンは試合後、中井川氏を胴上げで惜別。スタンドには感謝の横断幕が掲げられ、サポーターからは中井川コールが飛び交った。

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ホームに1万人超の観衆を集めたモンテの令和初戦は、まさに「中井川デー」だった。試合前の円陣でDF山田拓巳(29)は「中井川さんのために今日は絶対に勝つぞ!」と鼓舞した。モンテ一筋12年目の主将。07年に獲得を決めたのは中井川氏で「運動量が豊富で技術もあった。何より性格的に真面目だから、人間的にも成長すると思ったんだ」。その眼力通り、昨季に続き主将として好調チームをけん引する。

大学を卒業後、地元のNEC山形に就職した。5年後に転機が訪れる。当時の社長から、地元開催の山形国体へ向け企業チームを作るよう要請される。数ある競技の中で、サッカーを選んだ。当時のNECは世界第3位の半導体企業で、社の目標は「世界一を目指せ」だった。中井川氏は「企業理念と同じワールドワイドなスポーツは、サッカーしかありません」と社長に進言したら即決。モンテディオの前身NEC山形が誕生した瞬間だった。

これまでは愛好会レベルのチームだったが、有力選手を補強し短期間で県NO・1にまで成長した。しかし地元国体は6位に終わり、チーム存続の分岐点に立ったが、中井川氏は「社長に『チームは残して欲しい、日本リーグで戦えるまで成長しました』って直談判したらOKくれたんだよ。良い上司に恵まれたね」。懐かしそうに笑った。

チーム運営の母体が変わったため、97年にモンテディオを離れNEC山形総務部へ戻る。その間、チームはJ2中位レベルで、J1には程遠い戦いぶりだった。そこで、当時の運営団体・スポーツ振興21世紀協会の海保宣生理事長は中井川氏に「J1昇格に力を貸してくれ」と白羽の矢を立てた。この「引き抜き」には、当時の山形県知事もNEC山形の社長へ直談判したという。10年ぶりの復帰が決まり、中井川氏にはGMの役職が与えられた。「一刻も早くチームを強くしたかった。当時、若い選手が多かったからね。ユース年代の指導に定評がある小林伸二(58=現J3北九州監督)が真っ先に浮かんだよ。監督の他にGMもやってるから選手を見る目は確か。何より彼の指導には熱意がある、若いチームをしっかり鍛えてくれる確信があった」。すぐ翌年にJ1昇格。GM、監督ともに就任1年目の快挙だった。

クラブのフロントに属する人間が、ここまで派手に惜別されたシーンは、かつてあっただろうか。試合後はイレブンと肩を組んであいさつに向かい、締めは胴上げで宙を舞っては、最後の花道をつくってもらった。サポーターからは「中井川コール」がわき起こり、横断幕には「ありがとう中井川 これからも共に」のメッセージが送られた。つい、今後の去就を聞いてみたら「違った形になるけど、これからも(山形を)応援していくよ。J1復帰の夢を託して、ね」。もっと具体的な答を求めると、笑みを浮かべ「山田(主将)からバカラのグラスをプレゼントされたんだ。それでウイスキーでも飲みながら、ゆっくり考えます」。

1つの時代が終わり、リスタートが始まる。

◆モンテを築いた中井川氏の功績◆

81年4月 日大法学部を卒業後NEC山形に入社、総務部に配属。

86年 地元開催べにばな国体(92年)へ向け、鶴岡地区リーグ4部(当時)に属していたサッカー部の強化に着手。

87年 母校の日大山形や縁のあった国士舘大などから有望選手を獲得し補強。

88年 鶴岡地区リーグ2部で準V。県リーグ昇格決定。

89年 昇格初年度で山形県社会人リーグV。この年から当時ヤマハ発動機強化部の山本昌邦氏(61=NHK解説者)を特別コーチに招く。

90年 東北社会人サッカーリーグに昇格し初優勝。この年から4連覇する。さらに天皇杯本戦にも初出場した。

92年 べにばな国体(成年1部)は6位。

94年 JFLに昇格。翌年に石崎信宏監督(61)を招聘。

96年 NEC山形からモンテディオ山形に名称変更。

97年 チーム運営が法人化の方向となり、中井川氏はNEC山形・総務部へ戻る。

99年 J2に参入。

07年10月 中井川氏がGMとしてチームに復帰。J1昇格を託される。

08年 小林伸二監督の下J2リーグ2位に躍進しJ1昇格。翌年から3年間残留した。

14年 リーグ6位でプレーオフへ。初戦でGK山岸が神ゴール! 再びJ1昇格を決める。天皇杯も初の決勝進出。

15年 最下位J2降格。

16年 木山監督就任。

19年 取締役の任期満了に伴い退団。6日ホーム岡山戦でチームに別れを告げた。