負けず嫌いでないと生き残れない/越後列伝

コリンチャンス時代のセルジオ越後氏(前列左から2人目)。前列右から2人目が、リベリーノ氏=1964年

セルジオ越後氏はプロ選手時代にブラジルの名門コリンチャンスに所属。今やプロサッカー選手は高級車を乗り回す時代だが、当時はそうではなかった。同氏は自宅から姉の中古車を借りて、同僚を拾って練習場に通った。その「同僚」がなんと元ブラジル代表の背番号「10」であるリベリーノであった。

当時のブラジルはまだ交通量も少なく、かなりスピードを出せたという。「(交通)マナーのいい人はベンチスタートね」というジョークもあったとか…。移民の多い国だから、競争も激しかった。「日本では『セルジオさんは負けず嫌いだね』と言われるけれど、負けず嫌いじゃないとブラジルでは生き残っていけなかった」。F1の故アイルトン・セナ氏ら、伝説的ドライバーがブラジルから多く生まれたのも、そうした背景があるとみている。

もちろんコリンチャンス時代には苦い思い出もある。敵地で勝った試合後、相手サポーターに包囲され、試合終了は午後4時なのに同9時まで競技場を出られなかったことがある。試合では微妙な判定があり、審判団は警官の制服を着て“なりすまし”てパトカーで脱出した。選手の中にはマッサージ用ベッドの下に隠れていた者もいた。「アウェーは本当に怖かった」。

それに比べたら、日本のサポーターは良識的。かつて鹿島などで活躍したブラジル人MFビスマルクは「日本のファンは負けても応援してくれるんだね」と話していたという。

◆セルジオ越後 ブラジル・サンパウロ生まれの日系2世で、18歳でブラジルの名門コリンチャンスとプロ契約。同国代表候補にもなった。72年に来日、藤和不動産サッカー部(現湘南)でプレー。78年から「さわやかサッカー教室」で全国を回り、開催1000回以上、延べ60万人以上を指導。その経験から「セルジオ越後の子育つ論」など子育て本も出版。93年4月から日刊スポーツ評論家。06年文部科学省生涯スポーツ功労者表彰受賞、13年外務大臣表彰受賞。17年旭日双光章を受章。H.C.栃木日光アイスバックスのシニア・ディレクター、日本アンプティサッカー協会最高顧問。