「J8」の伝道師 元日本代表DF阿部翔平の今

TOKYO CITY FCのDF阿部翔平

平日のチーム練習は週1回、夜9時から。専用ピッチはない。いろんなグラウンドを転々とする。今は、フットサル場を借りてサッカーする非日常も日常だというDF阿部翔平(35)。元日本代表は、残りの平日も1人でトレーニングジムに通い、誰もいないグラウンドでボールを使って黙々と練習を続けている。

プロ選手だが、報酬は「奥さんに申し訳ないほど」に減ったと笑う。かつてはポルシェに乗り、毎日スプリンクラーで水がまかれた芝生に立ち、練習着からスパイクまで、何から何まで準備されていた中でプレーだけに集中し、日本代表にも選出された。

そんな実力者が、今はまるで別世界にいる。それでも阿部はこれまでと同じように、地に足をつけたプロ生活を続けている。

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J1リーグから数えて、8つ目のカテゴリー「J8」に移籍加入し、5カ月近くたった。Jリーグのクラブからの誘いもあったが、異例の移籍を決断した。

「もう35歳。次の何かを見据えながらサッカーができたらいいなと。自分のペースでできる今の形を望んでいたというか、競技としてやりながら、違う見方を身につけたかった」

クラブは東京都2部リーグの「TOKYO CITY FC」。14年設立で、渋谷生まれのソーシャルフットボールクラブと名乗り、新たな価値観で先進的な取り組みを行っている。初のプロ契約選手が加わり、ここまで公式戦は9戦負けなし(8勝1分け)と好調。リーグ戦も3位につけている。

サッカー以外の面でも尊敬できる周囲の人たちとプレーできる機会、そのすべてが学びの場となっている。「これまでの自分とは一番縁遠いところ、人たちとサッカーができている。面白い。指導の面でも、戦術的な頭の部分をどう自分が伝えて、浸透させていけるか」という挑戦に、生き甲斐を感じている。

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Jリーグはどこも経営が苦しいのか、功労者へのリスペクトに欠ける。どのクラブもベテランに厳しい。阿部より実績を積んだレジェンドたちでさえ、肩たたきのような最後を迎える。35歳でまだ引退せず、サッカーを続けながら将来を見据える阿部は異色の存在だ。

らしいといえば、らしい。成功をつかんだ一流Jリーガーだが「絶対に自分は主役じゃない。チームの中心じゃないし“隙間産業”的なところを担っていた、そんな感じです」。謙虚な阿部はこう言うが、猛者ぞろいだった黄金期の名古屋グランパスで不動の左サイドバックとして10年にはJリーグ初制覇に貢献している。

J1リーグでも通算317試合に出場した。「代表もベンチ入りだけです」と国際Aマッチ出場0ではあるが、日本代表の肩書も。J1リーグでも、デビューから247試合目での最遅ゴールという「珍記録」も保持。長く第一線で活躍しなくては、手に入らない“勲章”を持っている。

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ここまで生き抜いてこられたのは、わけがある。「無回転は、いつでも普通に、98%の精度で蹴ることができました」。パワフルで正確な左足のキックには絶対の自信を持つ。極めて難易度の高い無回転のボールも、自在に操ってきた。「キックがあったから、他の面でも成長できたと思う。保険じゃないですけど、最終的に僕はこれがある、そういうもの、1個突き抜けているものがあれば、生き抜いていけると思うんです」。そんな武器を伝える試みをスタートさせた。

時間ができたこともあり「まずはツイッターの動画から始めてみようかな」と、4月に開設したツイッター(@abeshohei21)で、動画も多用し、キックのコツなどを発信し始めた。誰でもひと目で、蹴り方が分かるような仕組みだ。トライしたところ閲覧数やフォロワーも増え、ダイレクトメッセージで高校生から質問が届くようになった。

話題になった? 1万円払って教えるシリーズではないが、地味に注目されている。ゆくゆくは巡回で個別指導し、監督、コーチという堅苦しい枠ではなく、もっと身近な伝道師として技術を伝えていきたいと願う。

早速、行動にも移す。東京・お台場に新設のサッカースクールにも参画。「プルミエサッカースクール」(https://premiersoccer.jp/)で、同じ筑波大サッカー部出身の同志と、実際に子どもたちに教え始めた。

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阿部は、Jリーグの優勝争いやヒリヒリした修羅場でも、実にひょうひょうとしていた。それでいて、目の覚めるような左足からの強烈なキックで局面を打開し、どんなカテゴリーでも、なくてはならない存在であり続ける。今はもう、Jリーガーではないが「J8」で、しっかりとサッカーに向き合っている。

かつて、その力買って名古屋グランパスでレギュラーに据えたオランダ人のセフ・フェルホーセン監督は、名古屋監督退任後、オランダのPSVに引き抜かれ、名門を率いすぐリーグ制覇を果たした。この時、名古屋には多くの実力者がいたが、一番連れて帰りたがっていたのが、阿部だった。

あれから10年以上がたつが、サッカーを続け、関わり方を模索しながらプロ選手であり続ける。「先端(トップ)ばかり見ていましたけど、もっと土台となっているカテゴリーというか、そういう人たちをどんどん盛り上げて、巻き込んでいかないと」。サッカー界の発展を願い、実際にそこに足を踏み入れ、今もたくましいキックを蹴る足で耕している。【八反誠】

◆阿部翔平(あべ・しょうへい)1983年(昭58)12月1日、神奈川県生まれ。名門・市立船橋で10番を背負い、全国高校選手権に出場。筑波大に進み、同期の藤本淳吾(ガンバ大阪)らとプレー。卒業後の06年に名古屋グランパス入り。2年目からレギュラーとなり、本田圭佑とも左サイドで連係。ストイコビッチ監督のもと、08年から不動の左サイドバックに。09年12月に日本代表に初招集され、翌10年1月のアジア杯予選イエメン戦(熊本)でベンチ入り。この試合の背番号は41。10年に名古屋で悲願のJリーグ初制覇に貢献。同年のJリーグ優秀選手。契約満了で、12年限りで退団し、ヴァンフォーレ甲府へ。2年プレーし、16年はジェフユナイテッド千葉に在籍。17年3月に甲府に復帰。再び約2年在籍し、19年2月から東京都2部のTOKYO CITY FCに移籍。登録はDFで、背番号は21。170センチ、72キロ。家族は妻と2女。