ローザンヌ移籍の鈴木冬一「ここからサッカー人生」

湘南MF鈴木冬一(2020年8月1日)

<インタビュー>

J1湘南ベルマーレからスイス1部ローザンヌへ完全移籍するMF鈴木冬一(20)が、年明けの渡欧前に日刊スポーツのインタビューに応じ、サッカー選手としてのこれまでの歩み、今回の移籍に込めた思いを語った。世代別の日本代表で活躍も、高3時に所属していたセレッソ大阪ユースを辞め、名将・小嶺忠敏監督が指揮する長崎総科大付高へ転入。異色のキャリアを歩んできた20歳が、チャンスをつかみ、海を渡る。【取材・構成=奥山将志】

 

鈴木にとって、プロ2年目の20年は、もどかしいシーズンだった。けがや両側慢性へんとう炎の手術などで、リーグ戦は14試合の出場にとどまった。そんな中で浮上した、ローザンヌへの移籍話。「絶対に行きたい」。胸に、幼い頃からの積み重ねてきた思いがこみ上げた。五輪イヤーの海外挑戦も、迷いはなかった。

鈴木 オファーがきたらいつでも行きたいと思っていたので、それがたまたまこのタイミングになった感じです。ワクワクしているし、楽しみ。オフ期間は長くないが、休めるところは休んで、早く来年に臨みたいですね。

00年に大阪で生まれた。その2年前の98年に、日本代表が悲願のW杯初出場を果たし、中田英寿がセリエAで成功を収めた。小学1年でサッカーに出会った鈴木にとって、「世界」は、ボールを蹴り始めた時から遠い存在ではなかった。

鈴木 最初に見たW杯は、10年の南アフリカ大会。本田圭佑選手のフリーキックとかですね。早起きしてテレビにかじりついて見ていました。メッシ選手が好きで、部屋の壁にポスターも貼っていました。日本のサッカーやJリーグというより、とにかくメッシ選手でした。今も背は大きくない(165センチ)ですが、背の順はずっと1番か2番でしたし、左利き、右サイドハーフとか前目のポジションをやっていたので、思いっきり自分をだぶらせてプレーを見ていました。

小学3年時にセレッソ大阪の下部組織に入団した。トップレベルでの経験を積むことで、「世界」への憧れは、より現実的な目標へと変わっていった。

鈴木 プロとして海外でプレーすることが絶対だったので、Jリーグを目指すというより、海外につながる場所だと考えていました。Jリーグの中でも、外国人選手はすごいという印象がありましたし、そういうレベルに自分がいくためには、海外でやるしかないと思っていました。

「といち」の名は、スノーボードのインストラクターをしていた父啓司さん(49)が、自身が愛する「冬」と、何事も「一」番を目指してほしいという願いをこめてつけた。父と姉の3人家族。絆はとことん深いが、鈴木がサッカーをしている時だけは、父の表情が違った。

鈴木 セレッソに入るまでは、とにかく怖かったですね。毎試合、帰りの車の中で怒鳴られてました。ある試合中に、ピッチの外にいる父から「出てこい」と呼び出されて連れて帰られたこともありました。監督とかではない、ただの保護者なのに「プレーがよくない。監督に『帰ります』って言ってこい」と…。父から学んだこと? 負けん気と気持ちです(笑い)。ただ、愛情は感じていましたし、反抗期とかもまったくなかったです。サッカーの時だけ、好きじゃなかった感じですね(笑い)。

世代のトップを走り続けた順風満帆なキャリアに転機が訪れたのは、17歳の時だった。U-17W杯に日本代表MF久保建英(19=ビリャレアル)らとともに出場。全4試合でピッチに立つも、「世界」のレベルを知り、危機感が芽生えた。

所属するセレッソ大阪ユースは、16年から「U-23」としてJ3に参戦し、鈴木も“飛び級”で3試合に出場していた。そんな恵まれた環境も、「世界」で戦うには遠回りになると感じていた。悩んだ末の決断が、長崎総合科学大付属高に移り、高校最後の年を「高校サッカー」でプレーすることだった。

鈴木 小さい頃から思い描いていた、プロになって2、3年を日本で活躍して世界に出ていくというイメージがまったく見えなくなっていたんです。U-23があることで、「まずJ3から」となったら、目指しているところからは遠くなる。高校サッカーにいけば、どこのチームからも選んでもらえるし、何かを変えたいと思って決めました。プロになる自信もありましたし、勝負するんだという気持ちだけでしたね。

ジュニアから育ててもらったセレッソへの愛着を捨ててでも、現状打破を試みた。名将・小嶺監督のもと、新たな仲間を過ごした1年は、結果的に、鈴木の選手としての幅を広げた。

鈴木 厳しい練習に向かっていく忍耐力だったり、高校サッカーにある「チームのために」という犠牲心、人間性の部分はすごく学びました。チームメートもすごく良い人が多くて、僕を否定から入らず、温かく迎えてくれた。僕はチームを変えたかったのでミーティングでも多く発言しましたし、途中から入った分、誰よりも走るとか、そういう泥臭さも吸収できたと思っています。インターハイに出られず、最後の選手権出場が決まった瞬間は、本当に行ってよかったなと思いました。あの1年は、学生時代で一番思い出深いですし、自分を変えるきっかけになる大切な時間だったと思っています。

19年に湘南に入団し、攻撃的MFからウイングバックにコンバートされ、素質は開花した。そして、迎えた2年目。思い描いていた通りの海外挑戦のチャンスをつかみ取った。だが、ここはゴールではない。まだたどり着いていない日本代表への思い、初めて見た10年前のW杯から日本の左サイドバックを務め続けてきた「長友佑都」の存在も、深く意識する。

鈴木 長友選手も身長が高いわけではないが、強みを最大限に生かして活躍されている。尊敬することは多々あるが、長友選手の次に誰がそのポジションをやるかと言えば明確にはいない。誰かを試しても、結局長友選手みたいな感じになってきたと思うんです。後釜と言われるのは好きではないですが、もちろん「鈴木冬一しかいない」と言われる存在になりたいですね。左サイドバックとしての左足の精度、技術は誰にも負けたくないし、自分の最大の武器としてやっていきたいと思っています。

リーグ優勝7回を誇る古豪のローザンヌでの闘いが始まる。リーグ戦は、来年1月末に再開される。言葉の壁など課題は少なくない。だが、これまで通り、信じた道を貫く強さは、鈴木の最大の武器になる。

鈴木 サッカー選手として海外に行くという目標でずっとやってきたので、やっと第1歩を踏み出せる。ここから、僕のサッカー人生をつくっていきたいと思っています。チームで活躍することで、東京五輪とかそういう可能性も出てくると思いますし、まずは、スイスで環境に慣れて、試合に出ること、それだけです。ヨーロッパに行けば、半年とか1年でステップアップできる環境にあると思う。移籍の期間が開く度に、自分の名前が世界でリストアップされるように活躍していきたいですね。

海外移籍の可能性を報告した父は、翌日に大あわてでパスポートを取得しに動いていたと笑う。20歳の「冬」。鈴木が「一」番を目指し、勝負に出る。

◆鈴木冬一(すずき・といち)2000年(平12)5月30日、大阪府東大阪市生まれ。C大阪の下部組織、長崎総科大付を経て19年に湘南加入。3月9日の鹿島戦でJ1初出場。U-17、U-20W杯日本代表。165センチ、61キロ。