尚志・松本克典監督、福島になでしこの花咲かす

選手たちに指示を与える尚志・松本監督(撮影・相沢孔志)

「富岡魂」とともに女子サッカーの未来を切り開く。尚志(福島)女子サッカー部監督の松本克典(45)は2011年3月11日、勤務していた富岡高で東日本大震災を経験した。福島第1原発から10キロ圏内にあり、避難したサテライト校舎で17年まで、同校の隆盛と休校までを見届けた。被災から10年-。苦難から多くを学び、創部3年目の尚志を初の東北女王に導いた指導者の熱い思いに迫った。(敬称略)【取材・構成=相沢孔志、中島正好】

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富岡の海で波にさらわれたと思われた種は10年後、郡山の地で力強い花を咲かせた。1月18日、「東北高校新人サッカー選手権」女子の部で、創部2年足らずの尚志が頂点に立った。決勝は4-0で仙台大明成(宮城)に完勝。創部から指揮する松本も「初めて同じ学年での勝負となり、目標にはしていたが、その大会で結果を出せたことは本当に出来過ぎです」と謙そんしたが、久しく続いた宮城勢の東北タイトル独占を切り崩した快挙になった。

10年前、松本は富岡で赴任7年目の春を迎える準備を進めていた。07年度から4年連続で全国高校女子サッカー選手権出場を果たすなど、指導者でも順調に階段を駆け上がっていた最中、「3・11」を迎えた。

松本 5時間目の授業中で、体育館の電柱がすごく揺れた。高台で津波は来ませんでしたが、駅が流されたと聞き、ただごとではないと。学校が避難所となり、多くの生徒たちと一晩を過ごしました。

翌12日朝7時、事態が再び暗転した。福島第1原発が危険な状態にあり、防災無線で避難を指示された。松本は生徒約80人とともに、西隣の川内村にある分校へ。いつもなら30分程度の距離も大渋滞で5時間以上を要し、到着してわずか1時間後、同1号機の建屋が水素爆発を起こした。

松本 20キロ圏内ギリギリだったので、ここも危ないとなり、さらに西へ向かった。郡山北工の体育館に着いたのは、夜11時です。

富岡高校として長い放浪の旅の始まりだった。

富岡は同5月10日、サテライト方式で学校生活を再開させた。運動部の拠点施設を考慮し、男女サッカー部は福島北、東京五輪代表・桃田賢斗(26)が2年生で在学していたバドミントン部は猪苗代など、5つの高校校舎を借りる形で再スタート。震災前と同等を望むべくもなく、練習環境は激変した。

松本 学校のグラウンドは北高の生徒が部活で利用するので、私たちは市の施設を借りた。平日は空いていてもイベントがあるときは譲り、土日は活動場所はなかった。初年度は学校の駐車場で基礎トレーニングとか。それでも選手は現状に不満を言うことなく、できることをやろうという空気感がありました。

震災で入学者が減少し、女子サッカー部は11年以降、選手が足りず「イレブン」も組めないほどに。指導者として脂が乗る年齢を迎えた松本だったが、全国舞台も遠ざかった。勝負師としてのジレンマはなかったのか? それでもこの10年を「得るものが多かった」と迷いなく総括する。

松本 いろんな人に出会い、助けてもらった。一番勇気付けられたのは、頑張っている人を見ることだった。その姿を見て僕らも頑張ることができた。

励みは、同僚教師2人の存在。男子サッカー部監督の佐藤弘八(現相馬高)とバドミントン部監督の大堀均(現トナミ運輸コーチ)だ。男子サッカーは13年に5年ぶりの選手権出場を果たし、バドミントンは震災後も全国総体の男女団体で表彰台を守り続けた。女子サッカーは15年、ふたば未来学園の2人を加えた14人の合同チームで、初の全国総体切符をつかんだ。

松本 あの人たちのバイタリティー、競技と選手への思いを見て、自分もやらなきゃと奮い立たされた。

福島の公立高校教員は7、8年のサイクルで転勤する。だが松本は休校まで、異例の12年間勤務した。

松本 8年目に震災が起きてサテライトが終わると思ったら休校が決定。12年というのはありえないですね(笑い)。ただ異動したいとは思わなかった。

17年3月に最後の卒業生57人を見送ると、「富岡でやり切った思いがあった」と支援学校に転勤。勝負の第一線から離れた。

17年は日本サッカー協会(JFA)の東北担当ナショナルトレセンコーチを務めた。週末は東北各地で選手視察。監督を離れた雌伏の1年も、指導者として貴重な財産になった。

松本 JFAの理念とともに活動することで、一教員としても、サッカーの深い部分まで考えることができた。出会いも大きい。中学校の関係者とパイプもでき、立ち上げ時に選手を紹介いただけた。

同年、女子サッカー創部に乗り出していた尚志(所在地は福島・郡山市)から、監督就任の打診。断る理由はなかった。

松本 富岡で女子サッカーの可能性にひかれた。震災の年になでしこジャパンが(W杯)で世界一になり、10年から女子もインターハイに出場可能となり、今年はWEリーグが開幕し、来年から国体でも少年女子の部が始まる。女子の変革期に携われていることは幸せ。教える場所が変わっても、福島の女子サッカーの発展と強化に尽くす思いは変わらない。

尚志女子サッカー部の心得「感謝の心と謙虚な気持ち」は、被災から10年の歩みを経てたどりついた松本の信条でもある。そして(1)サッカーを通し人として成長する(2)全国を代表するチームになる(3)なでしこジャパンのメンバーを育てる、という3つのビジョンを掲げて活動する。トレセンコーチで学んだ1年で、新たな指導方針に至った。

松本 富岡では頑張りきることに必死で、厳しい環境を乗り越えるために、彼らは「同志」という感じでした。今は認めてあげること。「Got it discovery」という発見を促し、発見を認めてあげる。そして、自分に期待すること。「もっとできる」というのを子供たちに植え付けて、自分の可能性を信じてトライしてほしい。

さらに国体監督を兼務しており、県女子サッカー普及の責務も担う。

松本 プレー人口は、中学年代に活動の場が少ないのが課題。長いスパンで考えながら、子どもにサッカーを薦めるお母さんになってくれればと思うし、県内の女子にとって目標の場として、とにかくやり続けたい。

尚志は今年初めて3学年がそろう。現部員は1、2年生合わせて25人。約半分が県内出身で、震災被害の大きかった相馬出身が2人、いわき出身が3人いる。今年2月13日の地震で郡山市は震度6弱を観測。校舎が損傷し、取材時は修復工事中だった。

松本 震災を忘れてはいけないと、みんなで感じることができたと思います。

今年は全国高校総体初出場を狙える位置にいる。総体出場2枠を争う6月の東北高校サッカー選手権(青森)は、各県優勝校によるトーナメント戦。尚志が東北新人を制したことで、福島代表に第1シードが与えられ、宮城代表とは別ゾーン。決勝進出で全国出場が決まる。

松本 (東北新人では)宮城勢に勝つことができましたが、僕は06年から常盤木学園や聖和学園の背中を見ながらやってきました。両校と戦うまでは、自信を持って東北で優勝したとは言えない。今年は全国に出て、全国で勝つことを目標にしたい。

自身にとっては、15年以来の全国舞台返り咲きを見据える。選手権2度の4強歴を持つ男子サッカー部に負けじと、福島になでしこの花を根付かせていく。

◆松本克典(まつもと・かつのり)1976年(昭51)1月22日生まれ、茨城県つくば市出身。選手時代のポジションはFW。土浦一(茨城)から筑波大に進み、同大修士課程体育研究科修了。同大蹴球部(サッカー部)では、3学年上に大岩剛氏(前J1鹿島監督)、大槻毅氏(前J1浦和監督)らがいた。00年4月から福島県高校教員となり、赴任歴は会津を皮切りに、01年から双葉、05年から富岡、17年は大笹生支援学校。18年から尚志教員。10年から県国体女子監督。16~19年まで東北担当のJFAナショナルトレセンコーチを務めた。