【高校サッカー百蹴年】剣道の「間合い」から始まった秋田商最多46回出場

学校に隣接された人工芝のグラウンドで、練習後にメンバーに話をする秋田商・小林監督(右から2人目)

高校サッカー連載<6>

古豪の足跡は、剣士の1歩から。秋田商の創立は、1920年(大9)。開校からスポーツが盛んだった。野球部は25年に甲子園初出場、剣道部は33年(昭8)に全国制覇。だが、41年に始まった太平洋戦争で状況は激化した。敗戦後、生徒募集は定員に満たない。

剣道8段の故内山真教諭は、頭を抱えた。日本はGHQの統治下にあり、軍事色を一掃する狙いで、剣道の指導は許されなかった。体育指導者の研修会で、運命が変わった。「サッカーと剣道の間合いは同じ。剣道の間合いを知っていれば、サッカーでもボールを取られない」。後のサッカー日本代表監督となる故高橋英辰氏の言葉だった。内山氏は「それなら自分にも教えられる」。48年。サッカー素人の剣士によって、今や全国最多「46」回出場の秋田商サッカー部が立ち上げられた。

軍隊時代は、戦車部隊。愛称「タンク」は、突き進んだ。窓から学校に出入りする生徒を見つければ、問答無用でサッカー部に入れた。徹底した走り込みで下半身を強化、剣士の間合いをたたき込み、高橋氏に学んだ基礎を軸に戦士を育成。1952年(昭27)度の31回大会で初出場。そして創部から10年後。1957年(昭32)度の36回大会で初優勝を飾った。

人が集まってきた。2度目の日本一は、1966年(昭41)度の45回大会。藤枝東(静岡)と両校優勝。中心メンバーは、世代屈指のGKといわれた故外山純元監督。外山氏は後に秋田商校長、秋田県サッカー協会会長、J2秋田の会長を務めるなど輪を広げた。

世代は脈々と続く。現在の小林克監督(48)、100回大会で2連覇を狙う山梨学院・長谷川大監督(48)の2人は、秋田商の同学年で外山氏の教え子。ユニホーム、練習着の左胸に記される「秋商」は昭和時代から不変。今は“強制入部”はない。このエンブレムを目指し、全国から入部者が集う。東京、茨城、山梨…。MF中野宏宣主将(3年)はJ2秋田の下部組織出身だが「これをつけたかった」と「秋商」の2文字を見つめた。

創部から70年以上。今年4月に伝統の丸刈りは廃止されたが、長髪の選手はいない。時代とともに、スタイルは変化しようと、根幹は揺るがない。内山氏は、精神面を鍛えた。外山氏は「サッカーを教えるのではなく、人間教育が大切」。小林監督は「1人の大人としてしっかりしていないと大成はない」と伝える。秋商サッカー部のルールは、移動は小走り、道具の整備を徹底-。雪国の地に、剣士の息吹は今も宿る。【栗田尚樹】

(つづく)