【沼津】48歳・伊東輝悦は今も現役「クレージー」でも「幸せ」30年の現役生活へ、思い語る

Jリーグ30周年記念球を持って笑顔を見せる沼津伊東

J3アスルクラロ沼津の元日本代表MF伊東輝悦(48)は、元年の93年からJリーグ一筋でプレーしてきた唯一の選手。J1からJ3まで全カテゴリーのクラブに在籍し、今も現役でピッチに立っている。Jリーグの歴史とともに歩んできた鉄人が、自身のプロキャリアを振り返りながら「あと少し」と話す現役生活に懸ける思いを語った。【取材・構成=神谷亮磨】

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白髪交じりの短髪と口ひげ、両足に残る数多くの傷痕が、一線で戦い続けてきた男の歴史を物語る。今はJ3沼津にいる伊東は、J一筋でプレーし続けてきた唯一の存在だ。93年。高校を卒業したばかりの18歳には日本初のプロリーグが人ごとのように見えていた。

伊東 派手に始まったな、という思い出。当時はトップとサテライトが完全に分かれていて。僕はメンバー外だったから、開幕戦は自分の家にいましたよ。

プロ1年目は、Jではなく天皇杯でデビューした。

伊東 大学生相手の1回戦。初めて公式戦に出てゴールを取れたので、はっきり覚えているんだと思う。

華々しかったプロ化の一方、まだ開幕当初は日々の生活が手探り状態だった。

伊東 練習を河川敷でやったり、オフ明けのフィジカルは(静岡市内の)日本平ホテルの庭で走ったり。とにかく(レオン)監督が厳しくて。常にピリピリしている空気感についていくのがやっとだった。

プロ3年目以降は定位置をつかみ、多くの選手と対峙(たいじ)してきた。

伊東 衝撃的だったのはエムボマとエメルソン。日本人なら(中村)俊輔がうまかったな。ボールを取りにいっても取れないし、いかないとフリーで蹴られるし。常に自分のことを見透かされている感じだった。

最初は10チームしかなかったが、J1からJ3まで全カテゴリーを経験した。

伊東 甲府の時も練習場を転々としていたし、グラウンドもボコボコだった。長野や秋田では、クラブハウス的なものがなかったかな。でも環境に文句を言っても始まらない。余計なことは考えず、日々全力を尽くすことだけ考えていた。

Jリーグ一筋30年。海外挑戦の夢もあったという。

伊東 アトランタ(五輪)の後ぐらいに行きたい、と。今は選手に代理人がいて当たり前だけど、当時はそうじゃない。僕自身39歳ぐらいまで代理人を付けなかったしね。スペインが好きだったから興味はあったけど、全然、話はなかった。今でも海外サッカーだけは好きで見る。この前のCL(欧州チャンピオンズ・リーグ)準決勝も4時に起きて見たし。年のせいか、目が覚めちゃうんだよね。

実は、プロ30年間で複数年契約を結んだのはたった1度。毎年「単年」で勝負してきたことも明かした。

伊東 続けてこられたのは単純に楽しいから。しんどいだけだったら辞めてると思う。サッカーのゲーム性が面白いんだよね。局面局面の駆け引きだったり。体は若い時と違うから、無理しすぎない程度にギリギリを攻める感じ。自分の体は自分で守らないと。若いやつらにも言っているよ。

引き際についても深く考えない。シンプルだ。

伊東 しんどくて、もう無理だと思ったら辞める。けがをするかもしれないしね。先のことは誰にも分からない。そうは言っても、あと少ししかできないというのは、さすがに分かっている。だから、1日1日を楽しく過ごしたい。30年。ほんと幸せだと思うよ。こんなクレージーなことは、人に勧められないからね。

93年の5月15日から1万と957日-。30以上も年の離れた選手と同じメニューを今もこなし、次の試合に向けて準備をする。30年前から変わっていない。大好きなサッカーに向き合う姿勢は、何ひとつとして。

◆伊東輝悦(いとう・てるよし)1974年(昭49)8月31日、静岡市生まれ。東海大一(現東海大静岡翔洋)高から93年に清水入り。甲府、長野、秋田でプレーし、17年に沼津へ加入した。96年アトランタ・オリンピック(五輪)に出場し、ブラジルから決勝点を奪い「マイアミの奇跡」を起こした。日本代表では98年ワールドカップ(W杯)フランス大会に出場。Jリーグ通算560試合30得点。国際Aマッチ通算27試合出場。168センチ、70キロ。血液型B。家族は夫人と長男。愛称テル。

◆93年度の清水の天皇杯 12月5日に行われた1回戦で札幌大と対戦。伊東はこの試合でプロデビューを飾り、1得点を挙げて6-0の勝利に貢献した。チームは2回戦で中大に1-0で辛勝。準々決勝では市原(現千葉)を2-1で下した。鹿島との準決勝は0-1でベスト4で敗退した。