ポーランド英雄レバンドフスキの雑草魂の原点

チリとの親善試合でドリブル突破を図るポーランドのレバンドフスキ(右)(ロイター)

<H組対戦国紹介(3)>

 絶対的エースの強さの根源は何なのか。日本は1次リーグ最終戦で強敵ポーランドと対戦。今季ブンデスリーガで得点王を獲得したエースFWロベルト・レバンドフスキ(29=Bミュンヘン)のルーツに迫った。レバンドフスキの母校「ワルシャワ市立第72スポーツ高校」を訪ね、高校時代の恩師に今や国民的英雄となった大黒柱の素顔を聞いた。8日の親善試合ではチリに2-2で引き分けた。【取材・構成=小杉舞】

 高層ビルと歴史的建築物が混在する首都ワルシャワの中心部から路線バスに乗って約30分。景色が一変した郊外の住宅街にかつてレバンドフスキは住んでいた。水泳やヨットで五輪選手21人を輩出した名門スポーツ高校の目の前は地域クラブの立派なサッカースタジアム。駐車場で子どもたちがボールを蹴り、バス停にはレバンドフスキの広告が掲げられている。

 もともとは小学校だったが、80年に高校に変更。85年にスポーツ専門高校となった。高校の食堂で学部長アンジェィ・ギラスキさんは当時のことを振り返った。

 「成績は優秀で当時から体格も良かった。スポーツで有名な高校だが、運動神経は抜群。完璧主義で、さらに『超』がつくほど負けず嫌いだった」

 地元のサッカークラブに通っていたため、サッカー部には所属しなかった。そのためバレーボール部やバスケットボール部にかり出された。スポーツ高校でどの部活動も全国レベルだったが、レバンドフスキの運動能力はずばぬけていた。だが助っ人として試合に参加する時も絶対に練習は怠らない。そして敗れた時は「誰よりも悔しがっていた」(ギラスキさん)という。

 そんな負けず嫌いな男にとって人生の転機と言える出来事が訪れた。高校在学中の17歳の時、最愛の父クリストフさんががんのために亡くなった。体育教師としてレバンドフスキを担当したヘンリク・リシェスキさんは「ロベルトの両親はすごく彼のことを支えていた。だから彼はとても悲しんでいた。学校では明るく振る舞っていたけどね」。心配したギラスキさんが声をかけると、返ってきたのは「母のことは僕が支えていく」と振り絞った一言。その強さにギラスキさんは心を打たれた。

 「彼はお母さんのことを大事にしていた。お父さんのことがあってから、自分がサッカーでお母さんに楽をさせてあげると誓ったみたいです」

 サッカーも経験し体育教師だった父は、学生時代に柔道で欧州王者に輝いたことがあった。その思いを刻み込むように、孝行息子のスパイクには漢字で「柔道」と記されている。

 高校卒業後も苦難が続く。同国の名門レギア・ワルシャワから契約を断られ、ワルシャワ体育大学に通いながら、同国3部ズニチェ・プルシュクフでキャリアをスタート。父と同じ体育教師だった母に学費を工面してもらいながらサッカーを続けた。3部、2部と得点王を獲得し、同クラブを1部まで昇格させた活躍が認められ、同国の強豪レフ・ポズナニへ移籍。1部でも得点王に輝き、ドルトムントへの加入が決まった。

 たたき上げでポーランドのエースへと成長したレバンドフスキ。ギラスキさんは「ポーランドの人はみんなレギア・ワルシャワは見る目がなかった、と言うよ」。苦労を重ねたが、両親への思いが常に国民的英雄を奮い立たせた。脂の乗った29歳で迎えるW杯。チームのエースが、より一層気持ちを高めて臨んでくるのは間違いない。

 ◆ロベルト・レバンドフスキ 1988年8月21日、ワルシャワ生まれ。10年からドルトムント、14年からBミュンヘンに所属。今季は3季連続30ゴールに1点届かなかったが、ドイツ1部リーグで2度目の得点王を獲得。左足、右足、頭と多彩な得点パターンを持ち、同国代表通算最多得点記録も保持。185センチ、79キロ。