さよなら、ペレさん。サッカー界最高の選手で「王様」と呼ばれたペレさん(本名エドソン・アランテス・ド・ナシメント)が29日、多臓器不全のためサンパウロの病院で死去した。82歳だった。
16歳でブラジル代表にデビューし、3度のW杯に優勝。1956年から77年までのプロ生活で公式戦1368試合1281得点という大記録を残した。日本など世界中のサッカー界、いやスポーツ界に多大な影響を残した「キング」が、天国へと旅立った。
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世界中が悲しみに包まれた。あのペレさんが逝った。長女ケリー・ナシメントさん(55)はインスタグラムに「私たちがいるのは、すべてあなたのおかげ。永遠に愛しています」と投稿。添えられた子や孫が手を重ねたとみられる写真が、涙を誘った。
昨年9月に大腸腫瘍の摘出手術を受け、同年11月からは大腸がんの進行を抑えるために入院した。今月18日にはW杯に優勝したアルゼンチンをインスタグラムで祝福。2年前に死去したマラドーナさんの名前をあげて「ディエゴも笑顔のはず」と称賛していた。
しかし、W杯決勝から3日後の21日、医師団が「腎臓と心臓の機能障害について、さらなるケアが必要」と声明を発表。クリスマスも病魔と闘っていたが、家族に見守られながら29日に帰らぬ人となった。
身長173センチと大きくはなかったが、抜群の身体能力で世界中の大型DFを手玉に取った。巧みなドリブルと驚異的なジャンプ力を生かしたヘディング。得点するだけでなく、味方へもパスを供給した。すべてのサッカースキルを兼ね備えた背番号10だった。
日本にとっても、大きな存在だった。72年にサントスのエースとして来日し、日本代表と対戦。77年には北米リーグのニューヨーク・コスモスを率いて引退試合を行い、84年には釜本邦茂引退試合に「助っ人」で参加した。試合後には釜本とともに肩車もされた。
海外サッカーの情報などなかった時代、日本のファンはペレさんに憧れ、ちびっ子は「Pele」のサインをまねた。国立競技場を超満員にした77年の引退試合は莫大(ばくだい)な利益を生み、日本協会は1億円とも言われた借金を返済。日本協会元会長の長沼健氏(故人)は「日本サッカーが今あるのは、ペレのおかげ」と話した。
親日家としても知られ、引退後も何度も日本を訪れた。93年のJリーグ開幕戦に招待され、日本サッカーの新たな船出に涙。川淵三郎チェアマンとも抱き合った。16年五輪のリオデジャネイロ招致に尽力したのは有名だが、2002年W杯招致でも日本をサポート。日本サッカー界に、なくてはならない存在だった。
国際サッカー連盟(FIFA)による「20世紀最優秀選手」1位にマラドーナとともに選ばれ、国際オリンピック委員会(IOC)の「20世紀最優秀選手」でも他競技のスーパースターを抑えて1位になった。サッカーだけでなく、ブラジルだけでなく、世界中から愛されたスポーツ界のNO・1。「キング」の死で、1つの時代が終わった。