[ 2014年2月22日9時36分

 紙面から ]会心のフリー演技を終えた浅田。感極まり、目からは涙があふれた(撮影・井上学)<ソチ五輪:フィギュアスケート>◇20日◇女子フリー

 浅田真央(23=中京大)は合計198・22点の6位となった。16位だったショートプログラム(SP)から「最高の演技」で復活。今季初のトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)も決め、自己最高を塗り替える142・71点を出し集大成の舞台で輝いた。銀メダルに悔し涙を流したバンクーバー大会から4年。母匡子(きょうこ)さんとの別れ、誓いを胸に戦った結末はうれし涙とともにあった。

 「ママ、どうだった?」

 いつもと同じ。5歳でスケートを始めてから、ずっとそうだった。どんな演技でも、どんな大会でも、必ず探した。真っ先に答えを聞きたかった。舞台は、名古屋の小さなリンクから、遠くソチに変わっても、あふれる涙にぬれながら、聞きたかったのはその答え。

 「よかったよ、真央」

 感情の波が体を震わせるなか、きっと、そう優しくほほ笑む母が浮かんだ。

 浅田

 昨日の悔しさも少しはあったんですけど、自分が目指している演技ができて、今まで支えてくれた皆さんに、メダルという形として残すことはできなかったですけど、あと残されたのは自分の演技だけだと思ったので、自分の中で最高の演技ができたし、良かったと思います。恩返しができたのではないかな。

 その22時間前、前日のSPでは3回転半の転倒もあり16位。金メダルが絶望になる中で過ごした葛藤の時間。再びリンクに戻れたのは感謝の気持ち。最愛の母への恩返しの思いだった。

 「なんで舞ばかりで真央は見てくれないの」。幼い少女はいつもやきもちを焼いた。何でも器用にこなす妹より、ちょっと世話がかかる姉の面倒が先。ただ、褒めてもらいたくて、小さな体で大きな関心を寄せるように跳び続けた。

 「私は引退」。母のその言葉が始まりだった。バンクーバーの直後。意外な通達に、急に1人取り残されたように感じた。それまでは練習、試合も一緒。リンク脇で常に見守ってくれた。「なんでだろう…」。

 母は病の重さを知り、娘の将来を考えた。もしもの時、しっかりと自分の道を歩んでほしい。きっぱりと娘から離れた。

 浅田が母の決断の真意に触れたのは11年5月。入退院を繰り返す母の精密検査の結果を知る。手術しても治らないかもしれない。その事実に戸惑い、「ママのためなら1年間スケートを休んでもいい」と切り出した。

 生体肝移植なら治る可能性がある。そう聞くと、姉と自分の体の検査も願い出た。競技はどうでもよかった。母の命に勝るものはなかった。ただ、母の言葉は違った。「ママの願いとして、みんなそれぞれパパも舞も真央もやっていることをその通りに一生懸命頑張ってほしい」。

 その覚悟を知り、娘は変わっていった。助手席専門だった車を運転してリンクに通った。母の誕生日には病室に見舞い、みんなで小さなケーキを囲んだ。そんな幸せな時間は初めてだった。ただただ、母の笑顔がうれしかった。

 11年12月。GPファイナルでの滞在先、カナダ・ケベックに父敏治さんからの急な電話が入る。「容体が良くない」。試合を欠場し、母の元へ急ぐ。成田空港に到着した浅田に、父から届いたメールには「ママは頑張れなかった」。病室へ入り、母に何度も「真央だよ!」と叫んだ。だが、その目は開かない。48歳、肝硬変で若くして逝った。

 数日後、いつも通う中京大近くの食堂に浅田の声が響く。「パパ、この魚おいしいんだよ」。憔悴(しょうすい)する父に、必死に元気な自分をみせた。誰より強くあろうとし、家族を支えたかった。それは母との約束があったから。「いつも通りに」。

 母からもらったのは言葉だけではなかった。3回転半を跳べる体もそうだ。浅田の実家の庭には、いまでも直径3メートルほどの大きな円形のトランポリンがある。それが2代目。「生まれたときには、もっと小さなものがあって、跳んでいたみたいなんです。いまでも使いますよ」。重力から解放される楽しさは、しゃべれる前から知っていた。

 強くてケガに耐える丈夫さもそうだ。小学生のころから腰にコルセットのような矯正器具を巻いてくれた。当時、まだフィギュアには筋力トレーニングは必要ないとされていたが、独学で理論を学び、ノートは100冊以上。ジャンプも左回転だけでなく、右回転を練習させて、左右の筋肉を均等に。器具も含め、娘の将来までの体を考えていた。

 浅田はソチのリンクに大きな躍動を刻んだ。ラフマニノフ作曲「ピアノ協奏曲第2番」が流れ始める。「できる」。そう自分を強くもち滑り出した26秒後、氷を左足で蹴る。体が舞い上がる。庭にあったトランポリンと同じ感覚。高く、高く。そして-。

 集大成の場所で、今季初めて成功した。世界でただ1人しか跳べないジャンプ。母の支えがあったから、いまでも挑戦できる。だから、決めたかった。2人で進んだ道の証しを刻みたかった。「自分のスケート人生」を表現するフリー。そこからは、過ごした日々の幸福も悲哀もすべてを注ぎ込む。ジャンプ、スピン、ステップ。1つ1つが、歩んだ軌跡に重なっていく。4分7秒、フィニッシュポーズを決め、天を見上げた。「いつも通りに」。やり抜いた娘を、母もきっと見ているだろう。

 枕元には笑顔の母の写真がある。小さな絵はがきサイズの飾り台に載せ、どこへでも一緒だ。この日の夜、眠りにつく前、きっとまた話したはず。「ママ、どうだった?」「よかったよ、真央」と。【阿部健吾】