陸上男子やり投げのディーン元気(28=ミズノ)が19日、オンラインでの合同取材に応じ、激動の1年を振り返った。

「みんな復活と言われますけど、進化じゃないですかね。進化していることを記録として表現できた」

冬はフィンランド、そして南アフリカで合宿を積んだ。未知のウイルスの感染が広がりはじめた3月は、南アフリカに。4月までトレーニングを積む計画を立てていた。ただ、少なかった感染者が一気に増えていく。同国のラマポーザ大統領が「ロックダウン(都市封鎖)」を宣言した。3月23日のことだった。

ロックダウンの南アフリカでの生活を、余儀なくされれば「かなりの行動の制限がかかってしまう」。アスリートとして必要な体調管理も難しくなる。「慌てて帰ってきました」。幸運にも便は手配でき、3月26日に帰国できたという。そこからは家族も含め、誰にも会わない隔離生活を2週間過ごし、その後は、近所の空き地でトレーニングした。

もちろん投てきの練習はできず、冬季に培った感覚は失われた時期もあった。「正直やばい」とも思ったという。ただ、フィジカル面の下地はできていた。競技場での練習を再開し、感覚さえ戻せば、「ベストは出る」手応えは持っていた。

そうして迎えた、8月23日のセイコー・ゴールデングランプリ。最終6投目に84メートル05をマークし、優勝を決めた。80メートルを上回ったのも7年ぶり。着ていたユニホームを引きちぎるほど、たまっていた感情が爆発した。「思い切ったパフォーマンスができない時期が長かった。もどかしい時間だった。その分、投げた時の喜びは大きかった」と振り返る。12年ロンドン・オリンピック(五輪)の決勝で右脇腹を痛めた。患部をかばいながら投げると、故障の負の連鎖に陥った。そこから長く、長く続いた不振。その脱却を印象付けた。

10月の日本選手権は、5投目に80メートル07を出し、トップに立ったが、甘くはなかった。最後に同級生が立ちはだかった。新井涼平(29=スズキ)に逆転され、7連覇を許した。「タイミングと試合の作り方は大事」。前半に好記録を出せなかったのを反省材料とした。

苦悩を乗り越えた今は、明確に世界と勝負することを見据える。目標は12年に出した自己ベスト84メートル28より、はるか先にある。

「世界と勝負するには80メートルではなく、安定して83~85メートルを投げることが必要になる。そうすれば88メートルも見えてくる。実現するための課題、リスクを含めた経験はたくさんある。経験を生かし、実現に向けてやっていきたい」

この冬にもフィンランドに渡り、東京五輪へ向けた強化を進める。

父は英国人。ロンドン五輪に続き、東京五輪に出場すれば、両親それぞれの母国開催の五輪に出ることができる。そんな不思議な縁にも感謝する。

「そういうタイミングで生まれた運を持っているんだなとも感じる。それを実現できるのは、自分しかいない。絶対にやってやらないと。前の大会とは違う思い入れもある。若くして躍進したオリンピックと、苦労して出場できたオリンピック。それも気持ちも違ってくると思う」

まさに彗星(すいせい)のごとく、強烈な輝きを放ち、早大3年生で五輪に出場したディーンも、12月30日には29歳となる。栄光も、苦闘も味わった男の覚悟には、独特の深みがある。【上田悠太】