有森裕子さん「特例でなく前例に」プロ開拓への秘話

五輪メダリストとして初めてプロ宣言した理由を語る有森さん

<平成とは・番外編>

20年前の1999年(平11)5月、女子マラソン五輪2大会連続メダリストの有森裕子さん(52)が、五輪メダリストとして初めて正式に「プロ」になった。日本オリンピック委員会(JOC)と日本陸連という巨大組織を相手にした2年以上に及ぶ彼女の戦いが、「選手の商業活動は厳禁」とされた時代に終止符を打った。何が彼女を突き動かしたのか。プロアスリート全盛の今、パイオニアの有森さんの証言に耳を傾けてみた。(取材・構成 首藤正徳)

銅メダルを獲得した96年アトランタ五輪から帰国後、ほどなくして有森は選手の不条理な立場に気付いたという。92年バルセロナ五輪の銀に続く2大会連続メダルの偉業で、国民的なヒロインになった。ポスターやCMの出演依頼が殺到した。ところが日本オリンピック委員会(JOC)と日本陸連は独自の商業活動をいっさい認めなかった。

有森 2つ目のメダルを取って、今後は走ることを生業として生きていきたいと思いました。そのために自分の価値を生かして仕事しようと思ったら、ダメだと言われた。肖像権もJOCが一括管理しているので、私にはないと言われた。これは絶対におかしいと思いました。

昭和の時代からJOCは加盟競技団体の登録選手の肖像権を預かり、「がんばれニッポンキャンペーン」の協賛企業の広告に選手を起用することで強化費を稼ぎ、競技団体に分配していた。協賛金4000万円のうち300万円が当該選手の競技団体に支払われ、選手が手できるのはその一部。協賛社以外のCM出演等は認められなかった。

有森 それまで、その制度のことは知りませんでした。やっと自分の価値を生かして生きていけるようになったと思ったら、肖像権が人に管理されている上に、活動にものすごく制限がある。世の中の人たちはみんな自分の価値を生かして仕事をしているのに、なぜ選手はそれができないのか。肖像権は自分で管理するものなので、返してほしいと訴えました。自由に使いたいと。そうしたら選手登録を外れて、引退して、タレントとして活動すればいいじゃないかと言われました。

有森の実質的な「プロ宣言」に、JOCと日本陸連は翌97年3月までに最終結論を出すとしていたが、同4月に「引き続き協議する」と具体的な提示を避けた。これに対して有森はプロとして商業活動に踏み切ることを宣言。すでに社員の身分では制約が多いとして所属するリクルートを退社し、同社と新たに業務委託契約を結んで独立していた。同社には20社以上から出演依頼が殺到していた。

有森 見切り発車でCMに出演しました。陸連の選手登録も外れました。陸連登録が必要なレースは2年間出場停止。ちょうど米国に留学していたので、走れない時期でもありました。象徴的だったのは海外の選手に話すと「当たり前のことなのに裕子は何を戦っているの」と理解できなかったことです。幸運だったのはリクルートが私の生き方をすごく尊重して、担当者をつけて一緒に戦ってくれたことです。あの支えがなければ今はなかったと思います。

この有森の投じた一石は、大きな波紋となって時代を動かし始める。97年5月、文部大臣(当時)の諮問機関「保健体育審議会」が97年5月の総会で、「がんばれニッポンキャンペーン」の制度見直しをJOCに求めた。JOCの内部から「時代に合わなくなった」との意見もあり、キャンペーン期間が終了する98年以降に制度を改革する方針を固めた。そして、98年6月、日本陸連が理事会で競技者規定の一部改定を承認。同7月に有森はプロとして再び陸連の登録選手になった。翌99年5月にはJOCも事実上のプロとして認め、肖像権事業からの除外を決めた。有森の全面勝利だった。

有森 最初は「特例で認める」と言われました。だから私は「特例じゃない。私のためにつくるものじゃない。前例なんです」と主張しました。私だけに選択肢があるのではなくて、今後、私のようにプロの道を選ぶ選手にも選択肢がないと意味がないと返しました。確かに戦う相手は大きかったかもしれません。でも、私は必ず変わると信じていました。プロ化は世界の流れで、当たり前だと思っていましたから。

99年4月のボストンマラソンで、有森はアトランタ五輪以来、2年9カ月ぶりにマラソンレースに出場した。結果は2時間26分39秒で3位。自己ベストを8年ぶりに1分20秒以上も大幅更新し、プロとして最高の結果を残した。

有森 プロになって一番責任を感じたレースでした。契約したトレーナーや練習パートナー、エージェントに自分で報酬を支払わなければならない。成績が残せなければ賞金はありませんから。3位になって本当にホッとしました。特にマラソンは不安定な世界で、プロになっても楽にはならない。厳しくなるんです。でも私はそれが全然苦にならなかった。厳しさの中に、自分の人生に対しても、周囲に対しても、責任を持つことの充実感を感じていました。

有森は00年シドニー五輪出場を逃し、07年2月の東京マラソンを最後に現役を退いた。00年代に入ってプロへの門戸はさらに開かれ、高橋尚子や北島康介、福原愛らが続いた。20年東京五輪を翌年に控えた今、体操の内村航平、陸上のケンブリッジ飛鳥、バドミントンの奥原希望、マラソンの川内優輝ら、トップアスリートたちが続々とプロ宣言している。有森が敷いた1本のレールは無数に広がった。

有森 選手が自分の生き方をしっかり考えるようになったことは大きいと思います。自分のやっていることを通して、生きていく選択ができるようになった。それは私が一番望んでいたことです。ただプロの厳しさに変わりはありません。成功するか失敗するかは自分次第。その厳しさも楽しむ覚悟で選択をしているのであれば、うれしいです。そうであるべきだとも思います。(敬称略)