鈴木雄介が競歩金「世界的なレジェンドになりたい」

男子50キロ競歩で優勝し日の丸を手に笑顔を見せる鈴木(撮影・河野匠)

<陸上:世界選手権>◇第2日◇28日(日本時間29日)◇ドーハ・コーニッシュ◇男子50キロ競歩

【ドーハ=上田悠太】万感の完全復活劇だった。男子50キロ競歩の鈴木雄介(31=富士通)が金メダルを獲得した。高温多湿の過酷な環境の中、スタートから先頭を歩き続け、タイムは4時間4分20秒。20年東京オリンピック(五輪)の代表に内定した。日本勢の世界選手権金メダルは11年大邱大会の男子ハンマー投げ室伏広治以来、史上5人目。競歩では五輪を含めても初めての快挙だった。20キロの世界記録保持者は約3年に及ぶ故障に苦しみ、一時は引退も頭をよぎったが、再び輝いた。

   ◇   ◇   ◇

世界一だ。金メダルだ。ゴールテープを切った鈴木の脳裏には達成感と真っ暗闇にいた時期の記憶が交錯した。「ここまで3年近く競技ができない時期、自暴自棄になった時期もあった。自分で勝手に日本競歩界のパイオニアだと思っていた。日本競歩初のメダルを奪われた悔しさもあった。でも初金メダルは自分が取れた」。日の丸の旗を持つと押し寄せてくる感情に涙が止まらなくなった。

レースは1人旅だった。想定より周囲のペースが遅く、いきなり飛び出す形になった。30キロ地点で2位と約3分差。しかし、46人中、18人に棄権を強いた気温30度、湿度70%超の過酷な環境が襲いかかる。終盤は「脱水のような症状で胃が疲れてた。戦略的に止まった」と進みながら、給水もできなくなった。何度も止まった。「危ないな。動かない足で50キロ持つのか不安だった」。そんな怖さも苦しみも、歩けなかった膨大な重苦しい時を思えば、取るに足らない。必死で腕と足を、前へ進めた。最後は39秒差に詰められたが、何とか粘りきった。

15年3月に20キロで世界記録を樹立。その栄光が暗闇の出発点だった。恥骨を痛め、5カ月後の世界選手権は途中棄権。グロインペイン症候群で2年9カ月実戦から離れた。先の見えない闘いに地元・石川に戻り、自暴自棄になって駄菓子などを食べ、体重は6キロ増えた。当時をこう表現する。

「一面暗く、波1つない場所で、小さい船にポツンと乗せられた。どこにいっていいか分からない」

その“航海”は恐怖との闘いだった。助けてくれたのは埼玉県内のグロインペイン症候群治療の権威ある病院。何カ所も病院を回ったが、そこは2年間避けていた。理由は「そこで治らなかったら、他に行く病院がなくなる」から。引退を受け入れるしかない現実が怖かった。当時、所属先と「3年だめなら無理かな」と引退に向け話し合いしていたのも事実。最後ともいえる頼みの綱を頼り、どん底からはい上がった。

「もう完全復活」という今は夢がある。「自分で言うのは恥ずかしいですが、競歩界の世界的なレジェンドになりたい」。20キロと50キロの世界記録更新にも意欲を示す。東京五輪は50キロで内定したが、20キロの選考会にも出場する意向。「正直、迷っている。ぜいたくな選択をしたい」。雌伏の時を乗り越えて、これから伝説を積み重ねていく。

◆鈴木雄介(すずき・ゆうすけ)1988年(昭63)1月2日、石川県能美市生まれ。石川・辰口中で競歩を始め、小松高から順大を経て富士通。世界選手権は09年ベルリン大会42位、11年大邱大会8位(後に6位へ繰り上がり)、13年モスクワ大会12位、五輪は12年ロンドンで36位。いずれも距離は20キロ。美しく無駄のない歩型で過去に失格経験がない。特技はボウリング。春には「210点」をマーク。「最近は競歩と同じで記録の波がなくなった」。171センチ、58キロ。

◆グロインペイン症候群 ランニングや起き上がり、キック動作など腹部に力を入れたときに股関節周囲の鼠径(そけい)部に生じる痛み。ボールを蹴るサッカー選手に多くみられ、1度なると治りにくいのが特徴。

◆鈴木雄介の歩み

・15年3月 全日本競歩能美大会で20キロの1時間16分36秒という世界新記録を樹立。その後、恥骨を痛める。

・15年8月 世界選手権北京大会では、痛み止めを打ちながら強行出場も、11キロ付近で自ら「×」マークを作り、棄権。体のバランスを崩し、グロインペイン症候群を発症。2年9カ月の間、実戦から遠ざかる。

・16年3月 回復の兆しが見られず、同年のリオデジャネイロ五輪の予選会出場を断念。治療もうまくいかず、「自暴自棄」になる期間に入る。

・17年10月 日本陸連から強化費の不適切申請で半年間の公式大会への出場資格停止処分を受ける。

・18年5月 東日本実業団選手権の5000メートル競歩で2年9カ月ぶりの復帰。

・19年4月 事実上の50キロ初挑戦となった日本選手権で3時間39分7秒の日本新記録を樹立。

・19年10月 過去4度の20キロと違い、初の50キロでの出場となった世界選手権で金メダルを獲得。