「バカか」一蹴された中継が危機救う/箱根連載1

「箱根駅伝」中継の元日本テレビプロデューサー坂田信久氏(撮影・上田悠太)

<コロナ禍の箱根(1)>

未知のウイルスの影響で、生活は一変した。まだ先は見通せない中、第97回東京箱根間往復大学駅伝(来年1月2、3日)は開催される。沿道の応援は自粛が促され、テレビやラジオでの観戦が呼び掛けられる。日刊スポーツでは「コロナ禍の箱根」と題し、全5回の連載をスタートする。第1回は元日本テレビのプロデューサー坂田信久(79)。中継は不可能と言われていた山を克服し、1987年(昭62)から全国中継を実現させた。テレビと箱根にまつわるサイドストーリー。(敬称略)【取材・構成=上田悠太】

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時は1986年。生中継が決まり、坂田は関東学生陸上競技連盟(関東学連)の釜本文男会長に報告へ行くと、信じられない言葉を聞かされた。

「ありがとうございます。ですけど、1、2年でコース変えるか、あるいは大会をやめるか。そう警察から言われているんです」

大会が存続危機であるとの事実-。突然のことに言葉も出ない。会社には報告できなかった。

実は大会を「整理」する話が、その数年前から進んでいた。ロードレースは警備が必須。警備の規模が膨らんでいた大会は、見直しを迫られていた。箱根も例外ではない。当時、警視庁は正月の混乱を回避したかった。コース変更、そして中止も含めた大会の在り方が問われていた。

しかし、テレビの影響は大きかった。人生を懸け、仲間とタスキをつなぐ筋書きなきドラマは、映像の力に後押しされ、正月の風物詩になった。いつしかコース変更、大会中止という“やぼ”な話は消えていた。坂田は「テレビが箱根を変えてはいけない」と言うが、テレビが箱根を救ったのは事実だった。「箱根を放送させていただけることになり、一番うれしかったのは、途絶えさせることがなかったこと」。ふと漏らす言葉は意義深い。

今でこそ当たり前となったテレビ生中継は当時、不可能と言われていた。電波を遮る箱根の山を、中継する技術がなかったからだ。

坂田は入社1年目の64年冬に箱根を取材し、胸を打たれた。何も知らぬ新人は上司に中継を提案すると「バカか」と一蹴された。ただ熱は冷めず、胸に秘めていた。その間、技術は進歩し、社内の立ち位置も上がった。

再始動したのは84年。ロサンゼルス・オリンピック(五輪)で一緒に仕事をした技術職の同期・大西に話を持ち掛けた。「箱根の完全中継を一緒に企画しないか」。米テレビ局に派遣され、技術を学んでいた大西は快諾してくれた。

当時はテレビ東京がゴールシーンとダイジェストの放送をしていたが、坂田には、ある思いがあった。「箱根は山を放送しなければ」。経費は「うやむや」で用意し、チームを組み、天下の険の攻略に着手。自ら重い機材を背負い、何度も山を登った。ただ、どう電波を飛ばしても、途切れる危険性のある場所は消えない。そこはアイデアで乗り切った。過去のエピソードを紹介するVTR「今昔物語」で埋めることを考えた。不可能とされた山を生放送できるめどが立った。

役員会では2度突っぱねられたが、社長、役員への直談判もあり、3度目で企画は通った。関東のローカル駅伝を全国放送するため、出場選手の出身地、高校を調べ、全国的な意義があると説明もした。「失敗したら責任とれ」とも言われたという。後の成功は、言わずもがな。放送時間帯の視聴率は“独走”だ。

これは余談になるが、関東学連には当時、日隈広至という日体大の学生がいた。今の副会長だ。日隈はNHKにテレビ生中継を売り込んでいた。当時を「今なら怖くてできない」と振り返る。その提案は「全国駅伝ではない」「山の中継技術がない」との理由で断られた。しかし、その間に日テレが名乗りを上げた。巡り合わせ1つで、放送局も違っていたかもしれない。

完全生中継から30年以上がたった。そして迎えたコロナ禍の箱根。「応援したいから、応援にいかない。」との印象的なキャッチコピーを作ったのも日本テレビだ。選手を思い、中止を避ける道を探り続けた。常に選手は主役-。今大会の放送には、脈々と受け継がれる、その思いがより詰まっている。

◆坂田信久(さかた・のぶひさ)1941年(昭16)2月20日生まれ。富山県出身。富山中部高、東京教育大(現筑波大)を卒業後、63年に日本テレビ入社。高校サッカー、トヨタ杯、箱根駅伝など、数々の名物スポーツ番組を立ち上げた。98年にはJリーグのヴェルディ川崎(現東京V)代表取締役社長にも就任。