駒大・大八木弘明監督「男だろ!」箱根路に響き渡るゲキ…最後の最後の締めですね/インタビュー

箱根駅伝優勝を狙う駒大・大八木監督は、「男だろ!」と記した扇子を広げる(撮影・野上伸悟)

<ブラボー!!箱根>

第99回東京箱根間往復大学駅伝(1月2、3日)まで1週間と迫った。今日から「ブラボー!!箱根」と題し、注目の選手などを紹介する。1回目は出雲、全日本を制し、史上5校目の年度3冠を狙う駒大の名将・大八木弘明監督(64)。勝つために、スパルタ教育から父子のような対話重視の指導スタイルへ自分を変えた。箱根路に響き渡る名文句「男だろ!」についても語った。

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大八木監督は往路優勝が総合Vのカギとみている。インタビューに応じた監督はライバル校を挙げた。「最終的に選手層が厚いところが優勝するでしょう。当然、強いのは青学大、中大、国学院大、順大。往路優勝を目指してきているそのあたりと戦わないといけない」と警戒。駒大のV確率を聞くと「勝負はやってみないと分からないが、優勝に近いところにはいると思う。80、90%近くまでは。残りの10%は体調です」と仕上がりに自信を見せた。絶対エース田沢廉(4年)以外のカギになるのは「やっぱり佐藤でしょうね。佐藤と篠原がどこまで走るかでしょう」。伸び盛りの1、2年の名前を挙げた。

今季は出雲、全日本と大会新記録で優勝。自己改革が大きな実を結びつつある。平成の常勝軍団も08年V後、21年まで優勝に届かなかった。「前と同じようなことをやっていても勝てない」。危機感から指導スタイルを変えた。「選手の意向を聞くところが変わったかな」。積極的に声も掛けるようになった。「常に『なぜ』を考えさせながらやらせたいからね。選手が考えて納得してくれなかったら身につかないし、強くはなれない」。設定タイムも選手と話し合って決める。

若いころは何でも自分が決めたことを選手に徹底させた。「私の一方通行でした。厳しかったし、学生は私に何も言えなかったと思う」。「辞めちまえ!」「ばかやろう!」。選手を厳しくしかった。今、厳しい指導は“パワハラ”とも受け取られる。「そういうことも含め、時代が変わってきた。昔とは違い、しかったり、手を上げたりはできなくなった。話し合ってやらなくちゃ。自分から話を聞こうと。自分も変わらないと。そういう時代かなと少しずつ思いました」。

朝練習の自転車伴走を20年春から再開した。約13キロ。走る選手について40分間、自転車をこぎ続ける。「きついけど、待っているだけじゃ選手の状態も分からない」。今も続ける大きな理由を挙げた。「選手が定年近いような65近いオヤジが一生懸命やっているのを見たら、走らざるを得ないという感じになるので」。全日本も20年に6年ぶりに優勝した。「変わってきたころ、選手に分かってもらえて勝ち始めたという感じがしなくもないよね」。

エースだった教え子で、男子マラソン元日本記録保持者の藤田敦史ヘッドコーチは今の監督が選手から信頼される理由を分析した。「できた時はちゃんとほめて、至らない部分は指摘して指導する。メリハリがついた指導が今の子にマッチしている。選手から見たら親のような存在」とみる。

監督のゲキは箱根名物の1つだ。練習中もいろいろなゲキを飛ばす。「ウチの子供たちで『あのゲキがないとスイッチが入らない』というヤツもいっぱいいる。田沢なんかも『何だか分からないけど、やらなかったら怒られるから走る』とかね(笑い)」。「対話というのもある」とも明かした。「流れによって変えていますが、マイクで問いかけて、OKみたいな合図をするヤツもいる。そこから余裕度、本気になっているかが分かる」。「男だろ!」と口にするのは「最後の最後の締めですね。もがき。次の走者を楽にさせるためのゲキです」と話した。

卒業生の中村匠吾は東京五輪マラソン代表に選出。目標の1つ、世界で戦う選手育成も実を結びつつある。今後について「駒沢にいながら、まだちょっと頑張って育てたいとの思いはある」と切り出した。「田沢とかまだ面倒見ないといけないし、佐藤もいる。ずっと面倒を見てきているので見られる範囲で見てあげたい。年齢的にそのうちバトンタッチするとは思いますけど、まだ今は」。しばらく監督業を続ける意向だ。

息抜きは酒とサウナ。「ビールならジョッキ2~3杯。若いころと全然変わっていない(笑い)。唯一の楽しみです。サウナは1日おきくらい」。自身の心身も整えながら3冠に挑む。【阿部健吾、近藤由美子】

◆大八木弘明(おおやぎ・ひろあき)1958年(昭33)7月30日、福島県生まれ。会津工卒後、川崎市役所などを経て83年に24歳で駒大夜間部に入学。1年で5区区間賞、2年は2区5位、3年で2区区間賞を獲得。4年は年齢制限で出場できず。卒業後はヤクルトで活躍。95年に母校のコーチとなり、助監督を経て04年に監督に就任。