今日、6月14日は日本サッカーの記念日である。

1998年のこの日、W杯フランス大会に初出場した日本は、2度の優勝を誇るアルゼンチンと1次リーグ初戦に臨んだ。初めてW杯予選に参加して44年。ついに最高峰の舞台で、世界の大国と対峙(たいじ)したのである。

約4万人収容のトゥールーズの競技場は、7割が青い色の日本人サポーターで埋まった。ピッチに選手が登場すると「ニッポン、ニッポン」の祈るような大合唱が沸き起こり、隣席の声も聞こえなくなった。記者席で鳥肌が立ったのを今も思い出す。正直、アルゼンチンに勝てるとは思っていなかったが「もしかすると」の期待が膨らんだ。

開始から攻めたのは日本だった。中盤でのパスもよく回った。最初のシュートもMF山口だった。「ある程度やれる自信がある」という岡田監督の言葉を思い出した。ところが前半28分、一瞬のミスからこぼれたボールを、あれほど警戒していたFWバティストゥータにあっさりと決められた。これが決勝点になった。

相手はそのバティストゥータをはじめベロン、シメオネ、オルテガら豪華スター選手が居並ぶ。全員がJリーガーの日本は初戦に全精力をつぎ込んだ。一方、決勝までの長丁場を見据えたアルゼンチンはギアを全開にすることなく、日本に攻めさせつつ、攻守の要所を押さえ、きっちり主役が仕留める横綱相撲だった。両国の間には0-1というスコアでは見えない、巨大な溝があった。

「まったく通用しなかった。余裕もなかった。1つのキックやトラップに差がある。もっとレベルの高いところで自分を磨くしかない」。カズに代わってエースFWに抜てきされた城の試合後のコメント。大国の底力を肌で感じ、何かに目覚めた。日本選手たちが世界への扉を蹴破る転機となった貴重な敗戦だった。

この大会期間中にセリエAのペルージャ移籍を決めたMF中田英を皮切りに、続々と日本選手が欧州リーグに移籍。海外の猛者にもまれながら高みを目指した。地元開催の02年W杯日韓大会は中田英(パルマ)小野(フェイエノールト)ら4人が欧州リーグ所属。『海外組』という言葉も生まれた。日本サッカーが一足飛びに世界の階段を駆け上がった4年間だった。

2度目のW杯で日本は快進撃を見せた。1勝1分けで迎えた1次リーグ最後のチュニジア戦。2-0の圧勝で首位で決勝トーナメント進出を決めると、長居スタジアムを青一色に染めたサポーターから4年前と同じ『ニッポン、ニッポン』の大合唱が始まった。その歓喜のこだまを再び記者席で聞きながら、私はあのトゥールーズの試合を思い出し、手元の時計の日付を確認した。

この日もまた、あの日と同じ6月14日だった。【首藤正徳】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「スポーツ百景」)

02年6月、W杯韓国・日本大会のチュニジア戦でゴールを決めて喜ぶ森島寛晃
02年6月、W杯韓国・日本大会のチュニジア戦でゴールを決めて喜ぶ森島寛晃