プロボクシング元WBC世界ライト世界王者のガッツ石松さん(73)は、第2の人生でも人気タレント、俳優として成功を収めた。

ボクサー時代は11度の敗戦を糧にして世界王座を奪取。5度防衛に成功して、1970年代に一世を風靡(ふうび)した。

引退後はNHK連続テレビ小説『おしん』などでの演技が高く評価され、1980年代以降に個性派俳優として確固たる地位を築いた。

なぜボクシングと芸能界という、まったく異なる2つの世界で頂に立つことができたのか。世界王座奪取から49年となった今年4月、都内でご本人にじっくりと話を聞いた。昨年6月の取材時の証言も合わせて、挫折と栄光が交差した波瀾(はらん)万丈の半生を『ガッツ石松という伝説』と題して連載する。第2回は「17歳でプロデビューした鈴木有二が、“ガッツ石松”で世界王者になった理由(わけ)」。

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「プロボクサー希望 鈴木有二」

1966年(昭41)3月3日、当時、東京・文京区大塚にあったヨネクラジムに入門したガッツ石松は、入会申込書にしっかりと自分の名前を書き込んだ。まだ16歳だった。

当初はあこがれの世界フライ、バンタム級2階級制覇王者のファイティング原田が所属する笹崎ジムに入門するつもりだったが、同ジムは東急東横線の学芸大学が最寄り駅。迷い抜いたあげく、当時、働いていた弁当店のある日暮里から山手線1本で通えるヨネクラジムを選んだ。

「原田さんの笹崎ジムに入ろうと思っていたけど、ジムがどこにあるか分からなくてね。どこでもいいやとも思ったけど、自分の生活している環境がヨネクラジムへと導いたんだよね。もし自分が笹崎ジムに入っていたら世界チャンピオンにはなれなかったでしょう。そういう点でも自分は運が強いんだよね」

目標は世界王者。練習は休まなかった。プロテスト受験資格は17歳から。誕生日がくるとすぐに受験を申し込んだ。1回目は不合格だったが、翌月の2回目の受験で合格すると、66年12月11日、後楽園ホールでのフェザー級4回戦でデビュー。1回KO勝利を飾った。以来、4連勝(3KO)と勢いに乗っていたが、5戦目で判定負けを喫した。この初黒星がボクサーとして最初の転機になった。数日後、米倉会長とともにジムの後援者の蜂須賀学さんを訪れた。

「ずっと目をかけてくれていた蜂須賀さんから、オレのふだんの言動がぶっきらぼうで何となく『森の石松』に似ているから『鈴木石松』にした方がいい、鈴木有二ではおとなしすぎると言われて。リングネームを本名から変えることになってね」

森の石松は清水次郎長の子分として幕末期に活躍した侠客(きょうかく)。義理人情に厚く、どこか間が抜けている愛すべき人物として、浪曲や講談に登場する。映画やテレビドラマでも三度笠に道中合羽の旅姿スタイルが定番で人気を博した。後援者はリングネームだけではなく、同じスタイルでリングに上がり、三度がさを観客席に投げ込むことも提案したという。これがやがて『ガッツ石松』のトレードマークになる。

「三度笠と合羽を着ろと言われたときは、いやだったね。とても恥ずかしくてね。覚悟を決めてリングに上がったけど、最初はみんなに笑われて。でも長いものに巻かれろというか、やっていくうちにだんだん慣れてきて、自分のスタイルとして定着してね。今にして思えば良かったよね」

鈴木石松で臨んだ初戦は引き分け。次は1回KO負け。その次も判定負けを喫した。初黒星から4試合続けて勝てなかったが、くじけることも、腐ることもなかった。その後は5連勝と再び上昇気流に乗り、68年度にはあのファイティング原田も手にした『世界王者の登竜門』と言われた全日本新人王(ライト級)を獲得する。

「何度も負けたけど、辞めようと思ったことはなかったね。ほかに腕に覚えがあるわけじゃないし、田舎から出てきて東京に人脈があるわけでもない。やるのはボクシングしかなかった。当時はただがむしゃらに“今”を無我夢中に生きていた。スパーリングだって全力でやるから強かったよ。やりすぎて米倉会長から怒られたくらい。自分にとってボクシングは生きることそのものだったから」

70年1月には東洋ライト級王者で世界挑戦が内定していたジャガー柿沢に判定勝利を収める番狂わせを起こし、世界王座挑戦が舞い込んだ。同年6月にWBA世界ライト級王者イスマエル・ラグナ(パナマ)に敵地で挑んだが、13回TKO負け。その後、東洋ライト級王座を獲得して2度防衛後、73年9月に再び敵地でWBA世界ライト級王者ロベルト・デュラン(パナマ)に挑戦したが、これも10回KO負けに終わる。この直後、ジムの後援者に再びリングネームの改名を提案された。

「お前はガッツが足りない、もっとガッツを出せ、名は体を表すから『ガッツ石松』にしろと言われて、リングネームを『ガッツ石松』に変えることになったの。なんかいじられているような気がして、最初はいやだった。自分もくそ真面目だったから反発してね。でも結果的にはよかった。何がどう幸いするか分からないよね」

広辞苑によると『ガッツ』の意味は「根性、気力」。だた、デュラン戦は根性がないから勝てなかったのではなかった。最大の原因はスタミナ不足。実はKO負けはパンチによるダメージよりも、心身ともに疲労困憊(こんぱい)して倒れたものだった。スタミナさえ付ければ、“石の拳”の異名を取った強打者で、後に4階級を制覇するデュランとも互角に打ち合える。それを敗戦から肌で学んだ。ロードワークを2倍の距離に増やし、練習でも手を抜かなくなった。ガッツ石松はもう以前の鈴木石松ではなかった。

「何かあるたびに『これじゃあいかん』と考えて、乗り越えて、自分のものにしてきたよね。ボクシングは勝ったり負けたりだったけど、そのたびに『WHY(ほわい)』と考えてきた。だから次にステップできたんじゃないかな。何の世界でも同じだと思うよ」

74年2月、ガッツ石松での初戦を4回KOで飾ると、同年4月11日、3度目の世界挑戦でついに、WBC世界ライト級王者・ロドルフォ・ゴンザレス(メキシコ)を8回KOで撃破して世界の頂点に立った。

11敗も喫していた挑戦者の勝利に『大番狂わせ』と世間は驚き、歓喜した。しかし、この勝利は本人にとっては必然だった。層の厚いライト級で防衛していける自信がついていた。だからこそ、彼はゴンザレスとの世界戦で手にしたファイトマネー全額を、ずっと心に決めていたあることにすべてつぎ込んだ。【首藤正徳】(第3回に続く)(敬称略)

◆ガッツ石松(いしまつ)本名・鈴木有二(すずき・ゆうじ)。1949年(昭24)6月5日、栃木県粟野町(現鹿沼市)生まれ。66年12月プロデビュー。72年東洋ライト級王座獲得。74年にWBC世界ライト級王座獲得。5度防衛。戦績は31勝(17KO)14敗6分け。79年に引退後は個性派俳優として活躍。NHK朝ドラ「おしん」や米映画「太陽の帝国」「ブラック・レイン」などでハリウッドにも進出。08年に鹿沼市民栄誉賞受賞。流行語になった「OK牧場」などユニークな語録でも知られる。