日本がアイルランドを破ってから、1時間半ほどが過ぎていた。携帯電話を鳴らすと、すぐに呼び出し音は途絶えた。代わりに、弱々しい声が聞こえてくる。その声は、震えていた。

「今、ようやくタクシーをつかまえて、乗ったところです。帰るのもひと苦労やね。ずっと、涙が止まらんかった。今も思い出すと涙が出てきます」

9月28日。ラグビーW杯で、日本は優勝候補のアイルランドに19-12で勝った。高校ラグビーで4度の全国制覇を達成した伏見工(現京都工学院)の山口良治総監督(76)は、番狂わせとも呼ばれたその試合を、静岡の会場で見ていた。

「嫁さんと一緒に行こうと思ったんやけどね。そんな遠いところまでは、よう行かんと言われてしまってね」

6年前に2度目の脳梗塞で死のふちをさまよってからというもの、歩くのにつえは欠かせなくなった。1歩、1歩ゆっくり進みながら、京都から新幹線に乗り、会場までたどり着いた。

「チビ」と呼んでかわいがる伏見工出身のSH田中史朗の勇姿を見るためだけではなかった。

そこに行けば、もう1人の“教え子”に会える気がしたのだという。

「今日の試合を、平尾は空の上から見とった。スタジアムの空にね、おったんやと思います。誰よりも、この勝利を待っていたからね。日本のために彼が歩んできたことは、まだ続いている。この結果も、平尾の歴史のひとつです」

3年前の16年10月20日、平尾誠二さんは胆管細胞がんのため53年の短い生涯を閉じた。かつて校内暴力で荒れた伏見工を、平尾さんらが中心となり、80年度に初の日本一になった道程はドラマ「スクール☆ウォーズ」として描かれた。日刊スポーツでは17年末に大型連載としてWEB掲載し、それを基にして「伏見工業伝説」(文芸春秋)として書籍化した。その取材で、山口先生は声を震わせて泣きながら、絞り出した言葉が忘れられない。

「僕は平尾を叱ったことが、ほとんどない。でも、今は叱ってやりたい。怒ってやりたい。なんでこんなに早く逝ってしまうんや。僕より早く、逝ってしまうんや。代われるものなら、僕が代わってやりたかった。一緒に日本でW杯が見たかった。一緒に見ると、約束をしたやないか…。せめて、それまでは生きていて欲しかった」

このW杯が開幕する数日前に、私は京都市内にある山口先生の自宅を訪ねた。近所の喫茶店でカレーを食べながら一緒に、静岡にあるエコパスタジアムまでの行き方を調べた。その時は、それが平尾さんに“会う”旅だということは気づかなかった。何度も「嫁さんは遠いから行ってくれへんのや」とつぶやきながら「誰か、一緒に行ってはくれんやろうか」と話していた。知人を頼って会場まで行き、日本の勝利を見届けた。

「4年前の南アフリカとの試合も、平尾と見るはずやった。あの時は、直前になって、体調が悪くなったと連絡が入ってね。でも今日、平尾は空から見ていた。一緒に見ていたのかも知れんね。長生きして、良かった。こんないい試合を、見ることができたんやからね。考えると、いつまでも涙が出てくる。これから浜松に戻って、そこで1人で泊まります。それじゃあ、また、いつでも連絡をください」

そこで、山口先生との電話は切れた。

偶然にも、1971年の同じ9月28日。

まだ現役の日本代表フランカーだった山口先生は、東京・秩父宮で桜のジャージーを着てイングランドと戦っていた。自らのPGでラグビーの母国を3-6と追いつめた伝説の試合から、48年もの月日が流れていた。【益子浩一】

「伏見工ラグビー部永遠に!」の式で、16年に他界したOBの平尾誠二さんの写真の前を大八木氏(左)に手をひかれて歩く山口良治総監督(2018年2月17日撮影)
「伏見工ラグビー部永遠に!」の式で、16年に他界したOBの平尾誠二さんの写真の前を大八木氏(左)に手をひかれて歩く山口良治総監督(2018年2月17日撮影)