1990年10月12日の日刊スポーツの4面の片隅に小さな記事が載っている。見出しは「新横浜プリンスホテル スケートセンター オープン」。30年前の10月11日が、近年の日本フィギュアスケート界の飛躍を支えてきたリンクの「誕生日」だった。荒川静香、安藤美姫、浅田真央、中野友加里、小塚崇彦らが滑ってきた。2017年に「KOSE新横浜スケートセンター」と名称は変わったが、施設の歴史はいまも続いている。

  ◇   ◇   ◇   ◇

2020年10月11日、30年目のその日をリンクは静かに迎えた。管理する新横浜プリンスホテルの担当者は「やはり、新型コロナウイルスの影響があり、お祝いという行事ができなかったですね」と残念そうに説明する。コロナがまん延する前の年頭には、記念日の祝い方が社内でも検討されていた。それが、状況は一変。現在に至るまで一般滑走は行えず、制約が大きい運営を余儀なくされている。

今月9日、東京選手権で教え子を見守る佐藤信夫、久美子両コーチの姿があった。荒川、浅田ら数々の名選手を育て上げてきた2人に指導拠点の新横浜のことを聞くと、「家ですよ、もう。本当の家より長くいるんですから」と久美子さん。1991年3月に前拠点の品川スケートセンターが閉鎖され、間もなく新横浜に移った。それから約30年、誰よりもリンクにいたのが2人だろう。

「総工費45億円をかけた同センターは、収納式座席や鉄骨が見えない美しい天井など、国内屈指の仕上がり」。1990年の新聞にはそう書かれていることを告げると、信夫さんがほほ笑んだ。「でもですね、初めてリンクを見に行った時はビックリしたんです。周りは全部草地で、道もボコボコ。車がぎっこんばったんして泥だらけでね」。新幹線の停車駅も近くにあり、高層マンションも立ち並ぶ現在からは想像できない。久美子さんも「移ってから間もなくですかね、コーチの人が『タヌキを車でひいたかもしれない』って血相変えてきたこともありましたね」と懐かしむ。当時は、リンクの2階にあった事務所から新横浜駅を通過する新幹線のぞみが見えたという。今ではすべてののぞみが停車するが、当時は止まる方がまれだった。

今から考えても規格外だが、品川はリンクが3面あった。新横浜は1面。当初はメイン競技はアイスホッケーで、「国内屈指」の設備であることは間違いなかったが、指導法では試行錯誤もしてきた。基本的にリンクは24時間オープンしており、選手コースに通うスケーターは貸し切りなどは、料金が安く済む夜間などが練習時間になる。限られた時間の中で、技術を落とし込む作業は、改善の毎日だった。

30年の中で記憶に残る出来事は、ともに2006年だという。教え子の荒川がトリノ五輪で金メダルを取ったことで、フィーバーが訪れた。一般滑走に人が押し寄せ、クラブ会員の入会希望者も殺到した。久美子さんは「私たちもビックリしましたね」と振り返る。荒川が出演したアイスショー「プリンスアイスワールド」も盛況を極めた。

いま、コロナ禍でクラブ員でも競技を辞める選択をする選手も出てきている。「学校もリモート授業などで逆に大変になり、なかなか滑る時間を確保できないという話も聞きます」と久美子さんは心配する。「早く、あの時(06年)のようにとは言わないまでも、滑る人が戻ってきてくれるといいですよね」。当時を思い出して願った。

運営するプリンスホテルは今後、一般滑走の開始なども含めて検討していくという。国内の常設リンクの数は限られているのが現状。コロナ以前以後では、環境の変化はやむを得ないが、続けていくことの意義は大きい。これからも世界へ羽ばたく選手も育みながら、30年のその先へと年を重ねていく。【阿部健吾】

(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)

1990年10月12日付の日刊スポーツより(一部切り取り)
1990年10月12日付の日刊スポーツより(一部切り取り)