赤く色づき始めた木々に囲まれた奈良・天理親里競技場。そのグラウンドの片隅に、試合を終えたばかりの高校生が腰を下ろした。

10月25日。奈良朱雀(すざく)高ラグビー部監督の山本清悟(しんご)は、全国高校大会奈良県予選1回戦を突破した教え子を無言で出迎えた。新型コロナウイルスの影響で無観客開催。数分前まで活気に満ちあふれていた会場は、静けさを取り戻していた。そこに、60歳の低い声が響いた。

「どういう気持ちでプレーしてるんや。どういう気持ちでパスしたんや。仲間に託すんやろ!? キック蹴ったら、そのまま。パスを投げたら『あとはよろしく』。怒りを通り越して、笑いしか出てこうへんわ」

33-0。1年前の秋に敗れた天理2部との初戦は、得点だけを見れば完勝だった。だが、後半は片手のパス、不用意なミスで相手に攻撃権を与えた。自分本位なプレーの連続を、山本は許すことができなかった。

「いつも言ってるよな? お前ら、きれいな花になろうとしてんのか!? 花を咲かせる土になれよ。仲間のためにやれ。自分が目立とうとして、花になろうとすんな!」

44年前の1976年。中学生だった山本の遊び場は京都の繁華街「祇園」だった。マージャン、パチンコに明け暮れ、弥栄(やさか)中(現開睛中)在学時から「弥栄の清悟」と恐れられた。伏見工(現京都工学院)に入学後、ラグビー部監督の山口良治(現総監督)から「清悟、ラグビーやるぞ」と自らが愛用していたスパイクを手渡された。入部を決意したが、夜には不良仲間から誘いがきた。

2カ月後の6月5日、山本は大雨のスタンドにいた。両チームの見分けさえつかない悪天候の中、1年前に0-112で敗れた花園に伏見工の先輩が挑んでいた。赤のジャージーは泥だらけで茶色になっていた。

18-12。そこに「花」はいなかった。仲間のために体を張る先輩の姿に、「京都一のワル」と呼ばれた山本の目にも涙があふれた。

「その時、正直に『美しいな』って思ったんですわ。ひたむきで、格好良かったんです。苦しくて泣いたことはあっても、うれしくて泣いたことはなかった」

あの日が、ラグビーに打ち込むきっかけだった。1年後には高校日本代表に選出され、山口からは「お前は悪いヤツの気持ちが分かる。そういうヤツを救ってやれ。教師を目指すんやぞ」と背中を押された。日体大を経て、この道に来た。

花園には1度もたどり着けないまま、20年10月3日に60歳を迎えた。来春から再雇用で指導を続ける意向を持つが、現時点ではっきりと決まっていない。定年前最後の花園予選。初戦突破を果たし、11月1日の準決勝では6度の花園優勝を誇る天理と対戦する。1月の近畿大会予選では、0-115と大敗した相手だ。

競技場の外へ歩を進めた山本は、部員の見えないところで静かにつぶやいた。

「今日が最終目標であれば『お疲れさん』と言う。でも天理の高い壁に挑戦していくのが目標。このままじゃ、どうにもならん。高い壁の方がぶち破った時に気持ちいいもん。できる限りのことを伝えたらんと」

衰えることのない情熱は部員の心を揺さぶった。主将の稲田鎮は力を込めた。

「山本先生はいつも、僕たちの課題をきちんと示してくれる。自分たちは勝って、決勝に連れて行って、花園に出るのが目標です」

自らが土となり、仲間を助け、花を咲かせる。

集大成を披露する場がやってくる。(敬称略)【松本航】(日刊スポーツ・コム/スポーツコラム「WeLoveSports」)

試合後、選手たちを指導する奈良朱雀・山本監督(中央)(撮影・松本航)
試合後、選手たちを指導する奈良朱雀・山本監督(中央)(撮影・松本航)