その笑顔が日本人の心をつかんだ。72年札幌五輪。18歳のジャネット・リン(米国)はフリーで尻もちをついたが、満面の笑みを浮かべて立ち上がる。最後まで笑顔で演技を続け、芸術点では満点の6・0。「札幌の恋人」「銀盤の妖精」と呼ばれ、日本にフィギュアブームを巻き起こした。

華麗なリンの演技を遠く米国でテレビ観戦していたのが、12歳の渡部絵美(58)だった。

姉の影響で7歳からスケートを始める。日本人初の五輪代表でもある稲田悦子から基本を習った。ただ当時はフィギュアスケートで根性論、スパルタ指導がはびこった時代。表現力、芸術性を極めるため、両親の助言もあり、小学4年の9歳で米国に留学する。

札幌五輪は留学先米ミネアポリスの宿舎の白黒テレビで見た。「白黒だったから、赤の衣装だったことは知らなかったけど、憧れた」。12歳の渡部は、自らが将来「和製ジャネット・リン」と呼ばれることになるなど、知るよしもなかった。

競技環境が充実した米国だったが、まだ露骨な差別が残っていた。小学生時代は母リディアさんも一緒だったが、お店などで「ジャップ」と口汚く、ののしられることもあった。そんなときはリディアさんが相手にドル紙幣を見せて「お金に色はない。同じお金を払ってる」と抗議。「つらくて何度も帰りたい」と思ったという。フィギュアに集中できる練習環境があることだけが救いだった。

米国での最初のコーチは、37、38年の世界王者フェリックス・カスパー氏(オーストリア)。基本のエッジワーク、ジャンプの回転のキレ、技と技のつなぎ(トランジション)の大切さなどを学んだ。札幌五輪のリンに心を揺さぶられた2カ月後の全日本ジュニアを制覇。勢いに乗る13歳は初出場の同年11月の全日本選手権も制覇した。その後4連覇し、16歳で76年インスブルック五輪出場権を勝ち取る。

同五輪日本代表の全競技の中で女子はわずか8人。フィギュア日本勢のレベルも、メダルには遠く及ばない。伸び伸びと自分らしい演技を披露して13位。悔いなく引退も考えたが、翌シーズンに、全日本選手権最多タイの5連覇がかかっていたため、現役を続行。高校2年で5連覇、同3年で最多6連覇を達成した。高校卒業のタイミングでもあり、今度こそ辞めようと思ったが、ある人物に声を掛けられ、引退を翻意する。

68年グルノーブル五輪金メダルのペギー・フレミング、76年インスブルック五輪金メダルのドロシー・ハミル(ともに米国)らを育てたイタリア人のカルロ・ファッシ氏。同氏との出会いがあったからこそ、日本フィギュアの歴史にも新たなページが加わることになる。(敬称略=つづく)(2017年11月19日紙面から。年齢は掲載当時)

◆渡部絵美(わたなべ・えみ)1959年(昭34)8月27日、東京都生まれ。7歳から本格的にスケートを始める。12歳だった72年全日本選手権初優勝。以後8連覇。76年インスブルック五輪は16歳で出場し13位。79年世界選手権銀メダル。80年レークプラシッド五輪6位。同五輪後に引退。引退後はタレント活動のかたわら、全国でスケート教室を開催している。