石川遼旋風 成績+人間性とアピール力で社会現象

07年5月21日付日刊スポーツ東京1面最終版

<平成とは・ゴルフ編(2)>

07年(平成19年)5月、何の予告もなく、天から舞い降りてきた新星が石川遼だった。ツアー初出場となったマンシングウェアオープンKSB杯で、東京・杉並学院高1年のアマチュアながら優勝。15歳245日の最年少優勝というニュース性とともに、さわやかで利発なキャラクターがお茶の間をくぎ付けにした。ワイドショーやCM界を席巻し、それまでゴルフとは無縁だった主婦層まで巻き込んだ「遼くんブーム」。愛称「ハニカミ王子」は同年流行語大賞となり、ゴルフ界、スポーツ界の枠を超えた社会現象となった。

「強い」を上回るスポーツ選手の「魅力」を示し、それに大人たちは翻弄(ほんろう)された。

優勝後、初の試合出場となった関東アマではワイドショーがヘリコプターを飛ばしたり、肉声を得ようとキャディーバッグに小型マイクをつけようとするトラブルも。当然、マネジャーがいるはずもなく、日本ゴルフツアー機構(JGTO)が一時代行した。

ツアー競技5試合目の出場となったブリヂストン・オープンで石川は第2日に86の大たたき、予選落ちにも異例の記者会見を求められた。あまりの“残酷さ”に広報担当が「疲れているのに、ごめんね」と謝ると、「僕にとって会見は、その日のラウンドを振り返るいい機会。苦になりません」と答えて驚かせた。アマの時点で「プロ意識」の持ち主だった。

石川が人を引きつけた要因について、スポンサー関係者は「好感度。インタビューの時でも相手をしっかり見て話す態度など」と話す。JGTOの広報担当は「コメント力」を挙げた。「初優勝時のスピーチは、練習なしなのに素晴らしかった。天性のものだと思った」と。若々しい攻撃ゴルフと同時に人間性とハートが伝わったのだ。その発信力の大きさは、平成スポーツ界ではイチローやカズ、本田圭佑、羽生結弦らと並ぶ1人といえよう。

08年のプロ転向時には用具契約は5年10億円とされた。09年に18歳で賞金王になった際、経済学者で関大教授の宮本勝浩(現名誉教授)らは年間経済効果を約341億円と推定した。

石川の登場で一時的に男子ツアーの試合数、視聴率、ギャラリー数は増えた。だが、米ツアーに進出し、日本を離れると下降線に。「不在が関係ないとは言えない」とスポンサー関係者も、JGTO関係者も口をそろえた。

石川本人は「遼くんブーム」当時を「ひと言で言うと、嵐のようだった」と振り返る。「自分が台風の目の中にいるような」とも。周囲の大騒ぎにも「人に見られてゴルフをするのが純粋に楽しくて、疲れやストレスは感じなかった」と、惑わされなかった。13年から米ツアー本格参戦と、順風満帆に見えたが…。

「たたきのめされて、ブレたこともあった」。16年には故障でプレーできない時期が続き、試練を味わった。それでも主戦場を日本に戻した現在「大事なのは今、ゴルフに前向きに、世界一を目指していられること」と、早期のプロ転向も米ツアー挑戦も後悔していない。「これが自分にとっての普通」と、他人と比較することもない。

石川の日本復帰で、視聴率もギャラリー数も回復傾向となった。だが、石川は「自分がプレーで世界一になることで、ジュニアにとってもゴルフ界にとっても、いい影響を与えられるはず」と、再び世界舞台に戻るつもりだ。

一方で選手会長としてもツアーを引っ張る。会議などでは「知らないことは質問し、自分の意見を持ち、ちゃんと発言する」と関係者。試合会場でのファンに向けたヒーローインタビューの実施など、自ら発案して改革に挑んでいる。

強い、うまい、成績は正当な評価は受けるが、それだけでは物足りない。人間性やアピール力という付加価値が、不特定多数の人間を取り込む。ゴルフ界、スポーツ界だけでなく、「平成」の傾向だった。(敬称略)

【岡田美奈】