松山「これから先、日本人が変わっていくと思う 僕はもっと勝てるように」

グリーンジャケットを着てガッツポーズする松山(ロイター)

<米男子ゴルフツアー:マスターズ>◇最終日◇11日◇米ジョージア州・オーガスタ・ナショナルGC(7475ヤード、パー72)◇有観客開催

松山英樹(29=LEXUS)が、日本男子ゴルフ界の悲願を達成した。日本人がマスターズに初挑戦した1936年(昭11)から85年、同じくメジャー4大会に日本人が初挑戦した1932年(昭7)の全米オープンから89年で、ついにメジャー優勝を勝ち取った。2位に4打差をつけて首位で出た松山は、4バーディー、5ボギーの73で回り、通算10アンダー、278。今大会出場10度目で初優勝を飾った。アジア人としても初優勝。2位のウィル・ザラトリス(米国)を1打差振り切った。

優勝を決め、カップからボールを拾い上げると、観衆の声援と拍手に手を上げて応えた。パトロン(観衆)や仲間からの祝福に、目にたまった涙をぬぐった。苦しんだ1日、さらには険しいゴルフ人生をかみしめた。「今日は朝からずっと緊張していて、最後まで緊張しっ放しで終わりました。(日本男子は)これまでメジャーで勝てなかったことが、僕が勝ったことによって、これから先、日本人が変わっていくんじゃないかなと思う。僕は、もっともっと勝てるように頑張りたいなと思います」と語った。

パトロンの前で、昨年優勝のダスティン・ジョンソン(米国)から、優勝者に授与されるグリーンジャケットを受け取り、袖を通すと、両手を突き上げて喜びを爆発させた。満面の笑みが「本当は18番でやりたかったですけど」と、パーパットを外してボギー締めとなったことを、恥ずかしそうに振り返った。

出だしの1番パー4で、ティーショットを右サイドの林に入れた。10メートルのパーパットをわずかに決めきれず、ボギー発進となった。だが続く2番パー5でバウンスバック。バンカーからの第3打を1メートルに寄せ、最初のバーディーを奪った。5番パー4で、5メートルのパーパットを決めてピンチをしのぐと、8番パー5で2つ目のバーディー。グリーンからこぼれた第3打のアプローチを、1メートルに寄せて奪った。さらに9番パー4も、残り90ヤード余りからの第2打を1メートルにつけ、連続バーディー。2つ伸ばし、勢いに乗って「サンデーバックナイン」に入った。2位との差をスタート時よりも1つ広げて5打差として折り返した。

それでも後半は一筋縄ではいかなかった。15、16番では連続ボギーをたたいた。最終18番も、パトロンが見守る中でのパーパットを外した。最後は2位と1打差まで詰まったが、振り切った。マスターズの代名詞グリーンジャケットを、日本人が初めて手にした。

17年8月世界選手権シリーズ、ブリヂストン招待以来、約3年8カ月ぶりのツアー優勝を「1番勝ちたいメジャー」と公言していた、マスターズで達成した。そのマスターズに初出場したのは、他のどのメジャーよりも早い11年だった。当時は東北福祉大2年。日本人アマチュアとして初出場を果たすと、通算1アンダーの27位でローアマ(ベストアマ)を獲得した。将来を期待された若者は10年後、同じ舞台で世界一の称号を手にするまで成長した。

そのマスターズ初出場の裏には、悲壮な決意があった。11年4月。松山が通っていた東北福祉大のある仙台市は、東日本大震災の被災から1カ月しか経過していなかった。甚大な被害に出場してよいか迷った。それでも出場を決めたのは、多くの激励の電話やメールに後押しされたからだ。

首位に立った前日の第3ラウンド終了後の会見で、当時を振り返った。「ここに初めて来た時は、震災があったので、まず、ここに来ることができるか分からない状況だった。そこでローアマチュアを取ることができた。あの時、この場を経験していなかったら、今の自分はないと思っています。10年前に、ここでプレーできたのは、今でもすごく心に残っています」。68で回った11年の第3ラウンド後、雲の上の存在だったスティーブ・ストリッカー(米国)に「ナイスプレー!」と声を掛けられた。「今でも残っています。オーガスタで60台で回ることが、すごいことなんだなと、あらためて思いました」。マスターズに魅了され、マスターズで勝ちたい思いが、松山を世界一へと導いた。

そんな松山の夢は今年、日本中の夢となって、さらに大きな声援、後押しを受けて4日間を戦い抜いた。青木功が、尾崎将司が、中嶋常幸が夢見たマスターズ制覇。丸山茂樹が、片山晋呉が、何度も挑んだオーガスタ・ナショナルGC。先人の思いを受け継いだ松山が、日本ゴルフ界史上最大の偉業を達成した。【高田文太】