日刊スポーツの記者が自らの目で見て、耳で聞き、肌で感じた瞬間を紹介する「マイメモリーズ」。サッカー編に続いてオリンピック(五輪)、相撲、バトルなどを担当した記者がお届けする。

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現実に「もし…」の世界はない。それでも想像だけは誰もがするだろう。人生の分岐点までさかのぼり、枝分かれした違う道に思いをはせることを…。荒川静香もそんな1人だった。

高校1年の98年に長野五輪に出場した天才少女は、親への金銭的負担も考えて大学でフィギュアスケート競技を終えるつもりだった。早大に進んだのは「就職」を考えてのこと。大学4年生だった03年夏、TBSスポーツ局に1通のエントリーシートを送った。すると「3日後に面接をしたい」と電話がかかってきた。

卒業まで卒論を残すのみだった当時、ショーへの参加もあってほとんど米国にいた。慌てて帰国便を押さえようとしたが夏休みシーズン。予約でいっぱいだった。日付をずらせないか頼んだが、断られた。「仕方なく辞退の電話を入れました。ご縁がありませんでしたね、となりました」。

仕切り直して、就職活動は卒業後にすると決めた。その卒業式を欠席して臨んだ04年3月の世界選手権で日本人3人目の優勝を遂げた。本人は「やりきって終えたかったので、やっとやめられると思った。これで就職活動ができるぞと」。有終の美のつもりだった。ところが、就活を応援していた周囲は一斉に「続けて」の大合唱。誰一人、やめていいとは言わなかった。

迎えた翌04-05年シーズンを「全くやる気のない時期。出口がまるで見えない暗闇」とまで言った。目標を見失い、どこに進んでいるかも分からなかった。世界女王として臨んだ05年3月の世界選手権は9位。出場した日本人で最下位だった。「そこで、こんな終わり方は思っていた通りじゃない。やり切った感じも全くないし、こんなのは嫌だ、ってなったんです」。

約1カ月後の5月始め。練習拠点の米コネティカット州に向かう成田空港で、彼女が読みふける雑誌に思わず噴き出した。なぜか「ハワイ」のガイド本だった。聞くと「気持ちだけでも行った気になれれば楽しいから」。救いを求める表情だった。あれほど沈んだ顔でハワイの本を読む人を、自分はいまだに知らない。

だが、6月の帰国では「気づいたけど、帰国が死ぬほどうれしくはないんですよね」と、彼女自身が不思議がるほど一変していた。心の逃げ場を閉じて覚悟を決めた顔。そう感じた。

06年2月23日、トリノ五輪女子フィギュアスケートで、ショートプログラム3位から逆転の金メダルに輝いた。この種目で日本人はおろかアジア人として初めての頂点。そして同大会で日本唯一のメダル獲得となった。地鳴りのような歓声の中、記者席でノートに書く文字が震えたことを覚えている。なぜか自分が、外国人記者からハグされたほどの熱狂の渦を味わった。代名詞の「イナバウアー」は流行語大賞にもなった。

「だから、もし、TBSに就職できていたら…。もし、04年の世界選手権で優勝しなかったら…。もし、05年の世界選手権(での悔しさ)がなかったら…。人生って、どうなるか分からないなと思いました」。

11年12月12日、カナダ・ケベックから乗り継ぎ先の米ニュージャージー州に向かう狭い機上。GPファイナルの取材を終えた帰国路で偶然、隣り合わせた。約2時間のフライトで語られた、彼女の「もし…」の物語だった。【今村健人】