浅田真央 最後まで「頑固」だった氷上のアイドル

14年2月、ソチ五輪女子フリーの演技を終えた浅田は感極まる

 フィギュアスケート女子の10年バンクーバー五輪銀メダリストの浅田真央(26=中京大)が10日、自身のブログで現役引退を表明した。14年ソチ五輪シーズン後に1年間の休養。18年平昌五輪を目指し、15年10月に復帰したが、今季は左膝のけがもあり、不調に苦しんだ。昨年末の日本選手権では、今季初めて最大の武器であるトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)に2度挑んだが、失敗。その後「気力もなくなりました」と説明した。関係者によると明日12日にも都内で記者会見を開く見通しだ。

 浅田はとても頑固だ。柔らかい物腰、純真さを感じさせるその言動、華麗な演技からは一見すると想像は難しい。だが、取材を開始した12年世界選手権(ニース)を思い出すたびに、ある一言がその裏付けをしてくれる。

 当時はどん底だった。11年末に最愛の母を亡くし、自信を取り戻していたジャンプも成長の確信を失った。ニース入り後、公式練習からトリプルアクセル跳び続けたが、フリー演技まで56回連続で失敗。結果は6位。記者としては、そこまでの固執はかたくなすぎて迷いを感じさせた。

 翌日、帰国するニース国際空港。早朝6時、空港に姿を見せた浅田に「お疲れさまです」と声をかけた。予期されたのは、顔を曇らせるか、少なくとも好意的な態度ではなかった。だが、返ってきたのは、「朝からお仕事大変ですね」の声。それは嫌みも一切なく、前日までの悲壮感もまとっていなかった。このギャップがその後もずっと取材し続ける中で、引っかかり続けていた。

 疑問がほどけたのはソチ五輪を挟んで15~16年シーズンまで4年間、浅田を追う中で徐々にだった。分かってきたのは、浅田は迷っていたのではなく、誰よりも「頑固」だということ。例えば3回転半。一時期封印していた時期もあったが、年齢を重ねても決してこの武器を手放すことはなかった。練習でうまくいかないと、練習場から「出てって!」と強い口調で関係者に訴え、黙々と1人で取り組んでいたこともある。強い口調と普段の浅田とは結び付かないが、決めたら実行する芯の強さも彼女の真実だった。

 それを知ると、ニースの朝の空港での言動も理解できるようになった。3回転半を跳び続けたから、貫徹し続けたから、余計な感情の起伏もなく、至って平静に対応してくれたのだろう。容易に想像してしまう「失意の帰国」とは違った姿こそ、彼女の意志の強さ、それを表していたのだなと今では思う。さまざまな困難を乗り越えるなかで戦い続けてきた、それがアスリートとしての強さの源だったとも感じる。

 15~16年シーズンで復帰した際に、こう言った。「それだけではなく24歳でスケート界ではベテランに入ってきている。もちろんジャンプ技術を落とさないことが大事ですけど、それだけではなく大人の滑りができればいいなと」。それとは3回転半のことで、スピン、ステップを含めた演技全体への意識の変化を感じさせる発言だった。「大人」をどう体現していくのか、そこに注目していただけに、今季の滑りに疑問があったのも確かだった。「なぜまた、3回転半にこだわり続けるのか」と。

 ただ、引退を聞いたいま思うのは、最後まで彼女は頑固だったということ。最後になるかもしれなかったシーズン、ジャンプに挑むことがアスリートの本分として、きっと「平静」、当たり前の判断だったのだろう。左膝の負傷の影響は分からないが、引退理由に気力を挙げた。気力とは、物事を成し遂げようとする精神。浅田を支えてきた貫徹する頑固さ、それが競技人生の突然とも思える終幕の理由だったとしても不思議はない。【12~16年担当=阿部健吾】