京都一のワル「弥栄の清悟」が入学/伝説の伏見工2

伏見工時代の山本清悟氏(後列右端)(山本清悟氏提供)

<泣き虫先生と不良生徒の絆>

 校内暴力で荒れた京都・伏見工をラグビーで更生した山口良治監督(74=現総監督)は、不良生徒と向き合いながら1年でチームの基盤を作った。そこに就任2年目の76年春、“京都一のワル”と恐れられた山本清悟(しんご、57=奈良朱雀(すざく)高ラグビー部監督)が入学してきた。

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■夜のスナックに出入り

 盆地特有の寒風が、京都の冬の本格化を告げていた。

 1976年(昭51)2月、伏見工の職員室は騒然としていた。ラグビー部が1年前に0-112で敗れた花園高を、18-12で下す4カ月前のことだった。届いた1通の出願書類に、教師たちは春からの不安を口にした。

 「『弥栄(やさか)の清悟』が来たら、学校がまた悪くなる」

 178センチ、90キロの体格で夜の街を闊歩(かっぽ)する山本清悟の進路は、教育現場の大きな関心事だった。京都随一の繁華街「祇園」にあった弥栄中(現開睛中)の3年生。“京都一のワル”と恐れられた男を、周囲は「弥栄の清悟」と呼んでいた。

 バイクを乗り回し、タバコと酒は相棒だった。日中もたまり場で賭博やマージャン、花札に熱中した。毎日のようにパチンコ店に入り浸り、勝った分の資金で夜はその足をスナックに向けた。15歳にして、両隣に大人の女性を座らせた。

 当時について、山本は「ちょうどその頃にカラオケがはやりだした。大人顔負けの遊びをしとった。老け顔やからいけたんですわ」と回想する。それでも残った体力で、中学の野球部では大柄な一塁手として本塁打をかっ飛ばす不良少年だった。

 山本にとって、伏見工の受験は屈辱への反発心でしかなかった。野球推薦で受験した京都の私学高校は不合格だった。

 「落とされたっていうのは、僕の中で負け。負けることは嫌いやった」

 当時の京都は学区制。担任に公立の進学校である堀川高を受ける意思を伝えると、翌日に学年主任、生徒指導部長ら4人が自宅にやって来た。「性格検査したら、君は工業に向いている」と諭された。

 「要するに『お前は受からへんから、伏見工業受けえ』っていう話ですわ。性格検査なんか、受けた覚えないですから。僕は高校に落ちた屈辱を晴らすだけやったから、学校はどこでも良かった」

 山本の入学によりざわつく伏見工職員室では、山口が「これはおもろいな」と1人で笑っていた。

■「ラグビー? 何やそれ」

 4月、桜舞う入学式の直後だった。不良仲間の中央を歩いていた山本は、体育教官室前で山口に行く手を阻まれた。

 「清悟、ラグビー部に入れ!」

 グッとにらみつけたが、山口も腕組みをして動じない。「ラグビー? 何やそれ。入る訳ないやろが! ワシは野球をやるんや!」。185センチほどあり、当時33歳の体つきはたくましかった。吐き捨てるように言葉を返し、その場を去った。だが、呼び捨てられたことに腹を立てながらも、元日本代表が放つ異様な空気を感じ取った。

 「こいつは素手では勝てん。棒かなんか、武器がいる」

 その姿は“京都一のワル”が、唯一感謝していた教師の姿と重なった。

 中1の時、初めて吸ったタバコが弥栄中の副担任に見つかった。きゃしゃな数学教師を見て、一押しで突き飛ばせると12歳は思った。その副担任は自宅にやって来るや、父親の前で顔面を殴ってきた。

 「この先生、結構本物やな」

 中学の教室のガラスを全部割った時にも、副担任の姿を見ると、放り投げるために持ち上げた椅子や机を地面に置いた。

 「『やめろ、やめろ』って言いながら、腰が引けてる教師っていますやんか。僕、その先生だけやったんですよ。真剣にぶつかってきてくれる先生はね」

 そして伏見工の教室で配られた入部届には「野球部」と記した。だが、山本はそれを握りしめて、体育教官室に向かった。山口に一言だけ伝えておきたかった。

 「よお、先生。やっぱり声かけてくれたけれど、ワシ野球やるわ」

 教官室から飛び出してきた山口の目は、輝いたままだった。

 「言いに来てくれたのか。まあ、ちょっとええから、教官室に入れ」

 手招きされるがままに、部屋へ入った。

 側面にこびりついた泥を落としながら、「これをやる」と1足のスパイクを差し出された。日本代表だった頃に山口がはき続けた、愛着のあるものだった。

■「ルールのあるケンカ」

 説得は強引だった。だが、もやもやした心の部分へ、1つ1つの言葉が的確に突き刺さってきた。口では「野球部に入る」と言いながらも、中学時代にワルの世界で有名だった先輩たちが、必死に楕円(だえん)球を追いかける姿が不思議だった。スパイクに目を落として発した山口の言葉は決定打となった。

 「ラグビーはルールのあるケンカや。ボール持ったら何をしてもええ。蹴る、殴る以外は何したってええんや。お前やったら一番になれるんちゃうんか!」

 翌日からラグビー部の練習に向かった。だが、ボールを回しながら約100メートル走る「ランパス」では、隣に20~30メートルも離された。タバコやアルコールに浸った体は、正直だった。夜になれば、中学時代からの不良仲間から誘いの連絡が来る。

 「やっぱり遊びたかったし、楽をしたかったんですわ」。何度も「ワシ、辞めるわ」と言い放った。

 だが、翌朝に目を覚ませば山口の顔があった。山口の自宅は阪急桂駅近く。午前6時に起床すると、京阪三条駅近くにある山本の家へと駆けつけてきた。午前7時、応対に出た父の「寝てますわ」の言葉を聞いた山口から「清悟! 起きんかい!」と蹴り飛ばされた。支度をし、2人はいつも駅近くの喫茶店に寄った。2枚ずつ出されるトーストの1枚を、いつも自分の皿へと移してくれた。

 山本はラグビー部を辞めるギリギリのところで踏みとどまり、6月5日を迎えた。あの花園高戦での勝利だった。

 降りしきる雨でびしょ濡れのスタンドから見た、ルールも知らないラグビーは衝撃的だった。伏見工の赤のジャージーが泥だらけで茶色になっていた。両チームの見分けさえできない悪天候にもかかわらず、不良から改心しつつある先輩たちは、1年前に完敗した相手の膝元へ何度もタックルを繰り返した。ノーサイドの笛が鳴ると、泣きじゃくって勝利を喜んでいた。恐れられていた男の目にも、自然と涙があふれた。

 「その時、正直に『美しいな』って思ったんですわ。ひたむきで、格好良かったんです。苦しくて泣いたことはあっても、うれしくて泣いたことはなかった」

 “京都一のワル”が人生の大きな転機を迎えた。(敬称略、つづく)【松本航】