“京都一のワル”が高校日本代表へ/伝説の伏見工3

高校日本代表のジャージーに身を包んだ山本清悟(2列目左から3人目)(山本清悟氏提供)

<泣き虫先生と不良生徒の絆>

 京都・弥栄中(現開睛中)時代に“京都一のワル”として恐れられた山本清悟(しんご、57=奈良朱雀(すざく)高ラグビー部監督)は、1976年(昭51)4月に山口良治監督(74=現総監督)率いる伏見工ラグビー部に入部した。入学直後にスタンドから見た強豪・花園高戦での勝利をきっかけに、山本はすさんだ夜の世界からラグビーへと、力を注ぐことになった。

   ◇  ◇  ◇

■大きなおにぎり2つ

 人生で初めて味わう、過酷な夏だった。

 「弥栄(やさか)の清悟」として恐れられた1年生は、かつて0-112で敗れた花園高を初めて破った試合を見て、ラグビーの魅力に引き寄せられた。だが、走ってばかりの毎日は苦しかった。当時は水を飲むことも許されない。逃げ出したい気持ちと、意地でも負けられない。そんな葛藤が何度も頭をよぎった。

 そして、真夏の愛知遠征が訪れた。セミの鳴き声が、うるさいほど響く。暑い1日だった。

 「よし、昼飯にしよう」

 マイクロバスで相手校に到着すると、部員は一斉に母親が作ってくれた弁当箱を開けた。その様子を見ないふりをして、山本は窓の外を見つめていた。カバンに弁当はない。昼飯はいつも、100円玉を握りしめ、売店で買った菓子パンだけだった。

 すると、突然耳に入った野太い声に一瞬、驚いた。

 「おい、清悟! これを食え!」

 ふと見ると、そこに山口がいた。

 「ええから、これを食え」

 そう言って遠ざかっていく大きな背中に目をやり、渡された風呂敷包をほどいた。中には大きなおにぎりが2つ、入っていた。まだ薄暗い夜明けに、山口の妻である憲子が「食べ盛りだから、主人よりもとにかく大きいものを」と握ったものだった。

 男手ひとつで育てられた。だが山本は、そんな家庭環境を周囲に明かしたことは1度もなかった。父親は決まって、朝早くから仕事に向かった。まだ親からの愛情が必要な時期。手を染めたのが飲酒や喫煙であり、不良仲間との夜遊びだった。心の奥にある寂しい気持ちを出すことはなく、いつも、虚勢を張って生きてきた。

 渡されたおにぎりを口に押し込みながら、周囲に悟られないように静かに泣いた。

 「この先生のために、ラグビーを続けよう。俺は、1年でレギュラーになる」

 明確な目標を作り、腹をくくった。

 走り込みは、ケンカよりも辛く、心が折れそうになったことは数え切れない。時には嘔吐(おうと)しそうになり、夏なのに冷たい汗が流れた。足は次第に速くなった。パスを回しながら約100メートルをダッシュするランパスでは、いつも「最後まで走り切れ!」と声がかかった。ゼェゼェと肩を揺らし、ゴール地点で最後にボールを受け取る。「もう辞めたる!」と叫びながら地面にボールをたたきつけたこともあった。山口からの「清悟、ええぞ!」という声。仲間からの「清悟、頑張れ!」という励まし。1つ1つの言葉で、厳しい練習を耐えた。

 「人間ってしんどくなると、決意したことを忘れがちになる。そんな時に仲間や、先生が支えてくれたんですわ」

 不良仲間からの誘いは、次第に断ることが多くなった。宣言通り1年秋にプロップでレギュラーをつかむと、徐々に自信が芽生えた。

■現実とは思えぬ出来事

 2年の初夏、練習が休みの朝だった。前夜、久しぶりに遊びへ出かけた。家に戻ると、ひっきりなしに電話が鳴っていた。

 「お前、どこにおったんや!」

 山口は電話口で激しく怒鳴り散らした。呼び出され、待ち合わせ場所に向かうと、興奮した様子でこう告げられた。

 「おい! 高校日本代表の合宿に呼ばれたぞ」

 正直、実感は湧かなかった。1学年上には、後に日本代表で屋台骨となる林敏之(徳島・城北高)や河瀬泰治(大阪・大工大高)らがいた黄金世代だった。そこに、つい1年ほど前まで“京都一のワル”と呼ばれ、ケンカばかりしていた男が選ばれたのだ。すぐには、それが現実だとは思えなかったのも無理はない。

 自宅へと引き返し、2人で父親に伝えた。それから、最寄り駅まで見送りに行った。並んで歩く山口の目に、光るものがあった。

 「清悟、良かったな。本当に、良かったな…。でもな、お前はこれからジャパンという看板を背負っていくんやぞ。看板を背負うとはどういうことか、それが分かるか? お前がジャパンの看板をはがそうとしても、はがされへんのやぞ」

 不良の集まりと呼ばれた伏見工から、初めて高校日本代表が誕生した。オーストラリア遠征のメンバー入りは、地元の新聞に取り上げられた。小学校時代の担任教師は「あの清悟ちゃんが記事になっとる。しかも悪いことやない。ええことでや。悪さしかしなかった、清悟ちゃんが…」。そう言ってポロポロと涙を流した

 その年の秋。花園出場をかけた京都大会決勝は18-30で花園高に惜敗した。0-112の大敗を喫した相手と、しのぎを削るまでになっていた。3年時にも高校日本代表のイングランド遠征に選出されたが、最後の花園をかけた京都大会決勝では再び花園高に6-12と屈した。

 勝てそうで勝てない。花園までのあと1勝が遠かった。伏見工でのラグビー生活が終わると、山口からこう諭された。

 「お前は悪いヤツの気持ちが分かる。そういうヤツを救ってやれ。教師を目指すんやぞ」

 その言葉を胸に刻み、山口の母校である日体大へ進んだ。だが、そこで待っていたのは理不尽な上下関係や、想像を超えたしごきだった。

■「清悟が逃げた!」

 ラグビーが楽しくなくなった。大学1年の夏。意を決して長野・菅平高原での合宿を抜けだし、京都の自宅に戻った。「清悟が逃げた!」。虫の知らせは同じ菅平で合宿中だった、伏見工にも伝わった。京都にある山本家の電話が鳴った。山口の声だった。

 「俺や。今から帰るからそこにいろ。ええな、分かったか」

 高校2年の近畿大会でヘルニアを発症してからは、腰痛が持病となり、悪化して満足に走れなくなっていた。精神的にも追いつめられ、大学の過酷な練習に絶えられなくなっていた。山本は当時を振り返る。

 「絶対にボコボコに殴られると思っていた。むしろ殴られて、ボコボコにされて、全部ゼロにしたかった。それで先生との縁を切る。京都にはおられへんくなるから、どっかよそに行こうと思っていた」

 久しぶりに向かい合った山口は、鋭い眼光を向けてきた。殴られる覚悟で、恩師の顔をジッと見た。

 「清悟、1年の愛知遠征を覚えてないんか!」

 一息つき、次の言葉が胸に突き刺さった。

 「あの時、俺は、お前にバスの中でにぎり飯を渡したよな! あれを、もう、忘れたんか!」

 ぐっと力を入れたほおを、殴られることはなかった。重たい言葉を受け止めるや、声を出して泣いた。

 「先生、俺…。俺、もう1回、頑張ってくるわ」

 家に放り投げた大きなかばんを持つと、すぐに駅へ向かった。高校時代に何度も2人で歩いた道をたどり、京都駅から菅平への乗り換え地点となる名古屋までの切符を買った。新幹線に乗り込む教え子の後ろ姿を見送った山口は、ほっと胸をなで下ろしていた。

 「あいつからラグビーを取ったらどうなってしまうんや? また、チンピラに戻るだけや。すさんだ生活に戻るだけや。そんなことは絶対にさせたくなかった」

 高校を卒業してからも、生徒へ深い愛情を注いだ。そして、伏見工という荒野にまいた種は芽を出し、ついに大輪の花を咲かせようとしていた。その中心には平尾誠二という、希代の選手がいた。(敬称略、つづく)【松本航】