平尾誠二がいた時代~初の全国制覇/伝説の伏見工4

1981年1月7日、決勝戦で大工大高を破り優勝を飾り、表彰を受ける伏見工フィフティーン。左から2人目は平尾誠二さん

<泣き虫先生と不良生徒の絆>

 不良の集まりだった伏見工は、わずか数年で京都の強豪と呼ばれるまでになった。“京都一のワル”と恐れられた山本清悟(57)が高校日本代表に選出されると、1978年(昭53)春には後に日本ラグビー界を支える存在になる平尾誠二(享年53)が入学してくる。全国大会出場を果たしたチームは、ついに日本一へ手をかける。

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■バンビの様な純粋な目

 あれから、40年もの歳月が流れた。

 「弥栄(やさか)の清悟」と呼ばれた山本が初めて高校日本代表に選出された77年の冬、山口はある中学生の自宅を訪ねた。

 毎年、10月10日に開かれていた京都ラグビー祭。伏見工-花園高の前座試合として行われた、陶化(とうか)中(現凌風中)-修学院中の試合で衝撃を受けていた。

 「あのスペースを突いたらチャンスになるやろうな」

 そう思いながら見ていると、きゃしゃな体つきの陶化中のスタンドオフ(SO)は、山口の理想通りにボールを動かした。

 名前を尋ねると、バンビのような純粋な目で「平尾誠二です」と答えた。

 その時、既に花園高へ特待生で進むことが決まりかけていた。断られることは覚悟の上で自宅を調べ、足を運んだ。寒い日だった。

 「もし平尾が花園高に行ってしまえば、3年間は勝てないやろうと思った。チームはようやく力を付けてきていたが、まだ学校はワルの集まり。親御さんは『あんな学校には行かせられない』と考えていたやろう。親を説得するのは難しかった。少しでも望みがあるのならと、必死で本人を口説いた。俺と一緒に花園を倒そう、日本一になろう。必ず、日本代表に育ててやる、と」

 精いっぱい夢を訴えかけた。できる限りのことはしたつもりだった。帰り際、両親に深々と頭を下げ、ふと平尾の自宅を振り返る。そこまでしても山口は「無理やろうな…」と心の中で寂しい思いを抱いていた。

 年が明け、京都にも公立高校の入試の時期が迫っていた。職員室に次々と出願書類が届く。あのバンビの目をした陶化中のSOは、花園高に行くものだと信じて疑わなかった。だが、その1通に「平尾誠二」の願書は、あった。

 「平尾が伏見を受けてくれる! あの平尾が…」

 目から涙がこぼれた。それと同時に「これで、本気で全国を狙える」と熱いものがこみ上げてきた。

■川に投げたトロフィー

 オール京都(京都選抜)で平尾とハーフ団を組んでいた修学院中のスクラムハーフ(SH)高崎利明(55=現京都工学院教頭)も、両親の反対を押し切って伏見工に入学した。1学年上には後に日本代表として活躍する大八木淳史(56)がいた。わずか3年前に0-112で花園高に大敗したチームは、強豪へと生まれ変わりつつあった。高崎は40年前を振り返る。

 「母親の実家が学校から近い伏見稲荷にあったので、荒れているのは知っていた。親は大学に行かせたいから、普通科に行けと言われていたけど、建築の勉強がしたいと説得しました。僕らが入った時には、土台ができつつあった。1年ごとに確実に成長していて、いい時期だった」

 当時、京都では10年連続で全国大会に出場していた花園高、古豪の同志社高とともに3強と呼ばれるようになっていた。平尾、高崎らが高校1年の夏には、関東で強豪の国学院久我山を倒した。全国大会出場への機運は高まりつつあった。

 78年秋、西京極総合運動公園であった京都大会決勝。2年生に大八木、1年生ながらレギュラーをつかんだ平尾を擁する伏見工は6-12で花園高に敗れた。初の全国大会出場は、そう簡単ではなかった。

 表彰式で準優勝の記念トロフィーが全員に贈られた。悔しくてむせび泣く選手たち。あと1歩が遠かった。帰り道、会場から阪急西京極駅へと続く道を無言のまま歩く。電車が走り去る音が、やけに大きく響いていた。1人、離れて歩いていた平尾は、天神川に架かる橋に差し掛かると、手に持っていたトロフィーを投げ捨てた。

 それからというもの、血のにじむような努力をするようになった。伏見工から山口の自宅がある阪急桂駅の途中に、平尾の自宅はあった。練習を終え、学校の用事を済ませてから、帰路に就く。電車の車窓から、走り込みをする平尾の姿を見ることがあった。帰宅して夕食を済ませると、近所の公園でキック練習をこなし、夜道を走るのを日課にしていた。山口はその光景を、鮮明に覚えている。

 「平尾の家の近くになると、よう1人で走っているのを見た。厳しい練習をさせていたが、家に帰ってからもまだやっていた。それは大学(同志社大)に行ってからも変わらんかった。『おっ、また平尾がやっとる』。そう思いながら、彼を見つけるのが楽しみやった」

 山口の妻、憲子もまた、当時の記憶が残っている。

 「よく天才だと言われますよね。でも天才というよりは、本当に努力をする子でした。人にはそれを見せなかったけれど(平尾の)お母さんからも、いつも公園でボールを蹴っていると聞いたことがあった。努力で、天才と呼ばれるまでに自分自身を磨いていた」

■全国初出場で8強入り

 努力は実を結ぶ。準優勝のトロフィーを天神川に投げ捨てた日から1年後。同じ花園高との京都大会決勝を55-0で制し、悲願の全国大会初出場をつかんだ。

 全国では準々決勝で国学院久我山に敗れはしたが、初出場で8強に進出した。そして、平尾が最終学年となって迎えた80年度。2年連続2度目の全国大会出場を決めた伏見工は、ついに日本一に手をかけようとしていた。

 「その頃には僕がここにボールを出したいと思ったところには、必ず平尾がいた。あうんの呼吸で、たとえ見ていなくても、僕が動けば平尾はそこにいる。不思議と、どんなに周りの歓声が大きくても、平尾の声と、山口先生の声だけはハッキリと聞こえた」

 そう高崎が言うほど、伏見工は、成熟したチームになっていた。

 第60回全国高等学校ラグビーフットボール大会。伏見工は危なげなく勝ち進んでいった。初戦の長崎南戦は62-0、年が明けた81年元日の西陵商戦は51-0。2大会連続で8強に進んだ。しかし1月3日の準々決勝、秋田工戦(16-10)で想像もしていなかったアクシデントが起きた。

 タックルに入った際、主将の平尾が左太ももの筋を断裂。普通なら試合どころか、立つことすらままならない重傷だった。それでも山口は、平尾を外さなかった。

 奈良市内にある宿舎旅館に戻ると、自分の部屋に呼んだ。湯船にぬるま湯を張り、血行を良くするために足を浸からせた。そして周りの筋肉が固まらないよう、いつまでもさすり続けた。2日後の準決勝は28-10で黒沢尻工を下し、ついに日本一へ王手をかけた。

■土壇場での決勝トライ

 大阪工大高(現常翔学園)との決勝戦の前夜、思うように足が動かない主将に、山口は伝えた。

 「痛いやろう。これだけ腫れているんやからな。でも俺はお前と心中するつもりや。もう、何もせんでもいい。立っているだけでもいいから、このチームを勝たせてくれ」

 81年1月7日、東大阪市にある花園ラグビー場。伏見工-大阪工大高の決勝は終盤までもつれた。3-3のまま時計が進み、両校優勝かと思われた時だった。

 後半ロスタイム、SH高崎のパスは、SO平尾を飛ばした。左へ流れたボールは直前のプレーで左肩を脱臼していたウイングの栗林へ。左隅に飛び込んだ土壇場のトライで、7-3と勝ち越し。長いロスタイムは続き、最後は平尾が真横にボールを蹴り出して、初の日本一を告げるノーサイドの笛が響き渡った。あの場面を、高崎は今でも思い出す。

 「もう平尾は走れない状態だった。最後の飛ばしパスも、平尾は足が痛くて遅れていたから、飛ばすしかなかった。最後に真横に蹴り出して終わったのも、痛くて蹴れなかったから」

 校舎の片隅でシンナーを吸う生徒、マージャン荘まで迎えに行かなければ練習に顔を出すことのない部員。荒れ果てた伏見工の監督に就任してから、わずか6年目でつかんだ日本一だった。現在、74歳になった山口はしみじみと言う。

 「0-112で負けてから、1年後に花園高を破ったこと。そして平尾があの決勝に勝って、日本一になってくれた。逆立ちをしても、平尾がいなければ優勝することはなかった」

■53年の短い生涯終え

 これほど愛情を注いできた教え子は、もうこの世にはいない。昨年10月20日。平尾は胆管細胞がんのため、53年の短い生涯を閉じた。わが子のようにかわいがってきたからこそ、山口の涙が枯れることはない。今回、この取材をする際も何度も声を漏らして泣いた。

 「あんな子と一緒にラグビーがしたくて、無理を承知で自宅まで訪ねて行った。そうして、私の夢を選んでくれた。いろんな経験を伝えてやろうとしたが、たった1つだけ、心残りがある。『親よりも先に逝ったらアカン!』。そんな大事なことを、教えてやることができなかった。どれだけ悔やんでも、悔やみきれない」

 平尾誠二がいた時代-。初の全国制覇を成し遂げた伏見工は、新たな伝説へと歩んでいくことになる。(敬称略、つづく)【益子浩一】