全国初優勝からの過渡期、闘病生活/伝説の伏見工5

第60回全国高校ラグビー選手権大会・決勝 伏見工対大工大 優勝した伏見工フィフティーンに胴上げされる山口良治監督(81年1月7日)

<泣き虫先生と不良生徒の絆>

 山口良治(74)の監督就任からわずか6年で、全国の頂点に立った京都・伏見工ラグビー部。スタンドオフの平尾誠二(享年53)を擁した1981年(昭56)年1月の優勝までの軌跡は、84年に始まった「スクール☆ウォーズ」としてドラマ化された。だが、その裏で山口は常に悩みを抱えながら闘っていた。

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■全国大会前の警察沙汰

 伏見工の監督に就いてから、今年で42年目。現在は総監督を務める山口が、1000人を超えるであろうOBの顔を順番に頭に浮かべている途中、少し苦笑いし、こう漏らした。

 「僕は人間ができていないんやろうか。浮き沈みが激しかった」

 不良生徒が校舎内でバイクを走り回しても逃げず、喫煙や花札、賭博が行われているたまり場にも、容赦なく立ち入った。生徒と真正面から向き合い、ラグビーに打ち込ませることで、周囲には荒れた生徒を更生させてきたようにも見えた。それでも問題は尽きなかった。

 “京都一のワル”と恐れられた山本清悟(奈良朱雀(すざく)高ラグビー部監督)は、中学時代からの悪友につかまってはケンカをし、警察に連れて行かれることがあった。その度に、警察署まで迎えに行った。時には「先生、何しに来たんや!」と悪態をつかれた。

 大八木淳史、平尾を擁して悲願の全国大会初出場を決めた79年冬には、大会前に部員4人が路上で暴れた。交通標識を壊すなどしたため、近隣住民の通報で警察に補導された。連絡を受け、急いで駆け付けた山口はさすがに動揺した。

 ようやくつかんだ初めての花園の舞台。警察沙汰になったことが学校や大会主催者に知れ渡れば、出場辞退となりかねない。間違った判断とは理解しながらも、あえて学校には報告しなかった。警察署から連れて帰ると、山口はその部員の自宅へ向かった。

 「大ごとになってしまえば、絶対に全国大会には行けなかった。すぐに、その子の家に行き、親の目の前で何度も、子供を殴った。軽はずみな行動が、どれほどチームに迷惑をかけるか。強くなればなるほど、それを分からせないといけなかった」

■平尾が1週間休んだ

 相変わらず、バイク事故も絶えなかった。強豪になれば、周囲から注目される。タバコや飲酒だけでなく、シンナー、賭博、京都でワーストとまで言われたバイク事故に、校内暴力…。それまで学校内では日常茶飯事だった悪事が、全国大会に出るようになると当然ながら、決して見逃すことができなくなった。

 山口は、初の日本一に立った80年度大会で主将を任せた平尾について「一度も叱ったことがない」と言う。だが真実は違った。入学して間もなく、1度だけ手を出したことがある。平尾とハーフ団を組んだ同学年の高崎利明(京都工学院教頭)は、同じ教師の目で当時を振り返る。

 「あれは高校1年の時やった。平尾が殴られて、その日から1週間近く、練習に来なくなった。山口先生はここぞという時、どこかのタイミングであえて厳しく指導することがある。それを乗り越えた時に、ある程度、生徒が成長するのを知っている。平尾は練習を休んだことを、自分では『練習がキツくて嫌になった』と言っていたけど、ホンマは違う。あれは先生に殴られて、嫌になったんですよ。あの頃は教官室に呼ばれたら、最悪でした」

 そう言われた山口がいつも助けられたのは、京都市東山区の浄土宗総本山知恩院で副執事長を務めていた師匠だった。

■目に見えない力とは?

 04年に他界した白幡憲佑(享年73)は、全日本仏教会の理事長なども務め、横浜高野球部前監督の渡辺元智らも従事した。すでに眠りに就いていた深夜でも、山口は白幡から連絡が来れば顔を出した。教えを請うたのは人生論だった。

 「目に見えない力とはなんぞや」

 そう言われ、平尾らが3年生となった80年には、30人ほどの部員を引き連れて知恩院を訪れた。講堂で全員が目をつぶり、座禅を組む。そして、目の前の木魚をたたいた。

 「しっかり合わせなさい! 合ってない!」

 当初は隣と話す部員もおり、一向に終わる気配はない。両足はしびれ、途中から苦しさのあまり目を閉じた。無心でたたき続けると、気付けば「ポン、ポン、ポン」と一定のリズムで音が刻まれた。

 「これだったか…。これや…」

 無の境地に達した時、人の心は1つに合致することを知った。ラグビーだけでなく、人間教育において試行錯誤の連続だった。

■91年4月の闘病生活

 全国大会は初出場の79年から83年まで、5年連続で歩みを進めた。82年には3位となり、誰もが認める全国の常連校の1つとなった。だが、それも長くは続かない。

 87年の花園で8強入りしたのを最後に、4年連続で全国の舞台を逃した。そして91年4月には突然、目の前が真っ暗になった。

 気付けばベッドの上だった。意識がもうろうとする中での闘病生活が続いた。診断は脳膿瘍(のうよう)。脳にうみがたまっていた。手術では死も覚悟した。

 100日間も生死の境をさまよいながら、隙を見ては病院を抜け出した。向かった先は、不良たちに本気で向き合った場所-。そう、伏見工のグラウンドこそが、山口にとって何物にも代えがたい生き甲斐だった。

 病床にいても山本の時代から、15年も続く生徒との日記を記した。体が重く、時には病が体をむしばんでも、生徒との交わりは欠かさなかった。それが部員との信頼関係をつなげる唯一の方法だった。だからこそ、ペンを握った。

 「初優勝の時に記者に囲まれて『信は力なり』と言った。やるのは生徒。監督が代わって、パスも、キックもしてやれん。どんだけ悪いことをしている生徒でも、みんな赤ちゃんの時はいい顔をして生まれてくる。周りにいる大人がその生徒のために尽くせなかったら、どうしようもない」

 その夏に現場への復帰を果たすと、今まで通り部員と正面から向き合った。だが、熱血指導が理不尽と見なされるようになり、生徒がついてこない時期でもあった。

■12年ぶりの全国制覇

 翌92年、主将を務めていた坪井一剛が体育教官室を訪れた。

 「3年生全員で辞めます!」

 思い詰めての直談判だった。授業中にもかかわらず、3年生全員を呼び出した。

 「お前、ホンマに辞めるんか?」

 1人、1人の目を真剣に見つめた。すると、その目力に圧倒され、全員が「続けます」と返答した。

 その冬、5年ぶりの全国の舞台を迎えた。病床からの交換日記で見守ってきた坪井ら、あのメンバーが躍動した。93年1月7日、花園ラグビー場。平尾らが初優勝をつかんだ日から、はや12年の歳月が流れていた。

 決勝の啓光学園(大阪)戦。8-10とリードを許して迎えた後半13分、ウイング安達信貴の逆転トライが飛び出した。15-10でのノーサイド、2度目の優勝だった。教え子の手によって宙を舞いながら、心の奥底からの涙を流し、快哉(かいさい)を叫んだ。7000人の観衆も、帰ってきた強い伏見工へ温かい拍手を送った。

 「お前ら、格好いいぞ!」

 山口は力いっぱい、そう言葉をかけた。

 98年には全国初優勝時のメンバー高崎に監督を譲り、総監督として00、05年の優勝を見届けた。喫煙、飲酒、バイクでの暴走…。数え切れない困難を与えてきたOBたちが、今や30人以上も教職に就いている。

 92年に全国制覇を成し遂げた坪井は現在43歳、小中学生へのラグビーの普及活動を行いながら母校を見つめている。

 「僕たちが中学生のころから、山口先生の教えを受けた先輩が、教員としてやって来た。後輩たちもどんどん教育現場に戻ってきている。山口先生というダムが水を流し、それをたくさんのOBが川となって、その教えをまたつないでいく。いつの日か、先生が亡くなっても、築き上げられた人の流れは途絶えることはありません」

■「伏見工」が消えた日

 伏見工は昨年4月、洛陽工と統合し「京都工学院」となった。ただ、1、2年生は新校籍だが3年生はまだ伏見工籍のため、ラグビー部は今季までは「伏見工・京都工学院」の名称で活動。つまり現3年生が引退した時点で、チーム名から「伏見工」の名前が消えることになった。

 そして節目の日がやってきた。17年11月12日。「伏見工」を背負う最後の3年生が、京都大会決勝戦を迎えた。相手は春の選抜と夏の7人制大会で全国準優勝した京都成章だった。山口の姿もスタンドにあった。

 大方の予想を覆し、前半は伝統の展開ラグビーで7-0とリードした。しかし後半は地力に勝る相手に試合をひっくり返された。7-22で迎えたロスタイム、残りワンプレーで意地のトライを返した。4度の全国制覇を誇る伏見工、その不屈の魂を最後に見せた。

 14-22という結果で、伏見工の伝説は幕を閉じた。「京都工学院」に受け継がれていく山口の教え。その原点は、知られざる山口の幼少期にある。(敬称略、つづく)【松本航】