山口良治の原点、愛情に飢えた記憶/伝説の伏見工6

ラグビー全日本候補合宿 ボールをセットする山口良治(73年7月)

<泣き虫先生と不良生徒の絆>

 荒れた伏見工ラグビー部を率いた山口良治(74=現総監督)は、就任からわずか6年で高校日本一へと導いた。不良生徒と真っ向から向き合い、注いできた情熱と愛情は、7歳の時に実の母を亡くした経験から生まれたものだった。連載の最終回は、その生い立ちに迫った。

   ◇  ◇  ◇

■小学1年で死別した母

 あの日のことを、今でも覚えている。

 1943年(昭18)。福井県の南西部、若狭湾を望む三方郡南西郷村(現美浜町)に生まれた山口は、7歳の時に実の母である梅子(享年37)を失った。

 まだ医療が発達していなかった時代。兄は泣かぬまま死産で生まれ、母の体は以前から大きな負担を抱えていた。長い眠りについた母の顔は忘れられない。まだ、小学1年生だった。

 どれほどの涙を流しただろうか。泣いても、泣いても、悲しみが癒えることはなかった。

 「母ちゃんはね、リンゴをたくさん買いに行ったんやで。もうすぐ、帰ってくるよ。母ちゃんが、そう言っていたもん。なあ、母ちゃん、帰ってくるやろ?」

 3つ年下の妹、登志枝は母親の死がまだ理解できていなかった。いつまでも、いつまでも、梅子が帰ってくるものだと信じて待っていた。

 それから1年ほどすると、父の定一(享年78)は再婚した。先夫との間の子を抱えた継母が家にやって来る。幼心に少しは寂しさが癒えるかと思っていたが、そんな願いはすぐに消えた。

 一緒に暮らしていても、悲しみは逆に増していった。学校に持っていく弁当は自分で作った。靴下や下着でさえ、洗ってくれることはなかった。

■継母とちぎったボタン

 寒い冬。氷が張るような冷たい水で靴下を洗っていると、あかぎれで血がにじんだ。まだ小学校低学年。友人が母親と幸せに歩いていると、胸が締め付けられ、はち切れそうになった。真の愛情を感じたことは、一度もなかった。

 小学4年生になったある日。外れたボタンを自分では付け直すことができず、悩んだ末に、継母にお願いした。次の日の朝、ボタンは頼んだ位置とは違うところに、乱雑に付けてあった。

 「もう1回、やってちょうだい」

 腕にしがみついて、何度頼んでも、それをしてはくれなかった。やけになり、目の前でボタンを引きちぎった。家を飛び出し、近所の女性に「ボタンを付けて」とわんわん泣いた。それ以降、継母と心が通じ合うことはなくなった。

 「母ちゃんが死んで、愛情に飢えていた。2人目の母親とは折り合いが合わんかったからね。寂しくて、寂しくて、どうしようもなかった。あれは4年生の遠足やったかな。バスガイドさんの手を握ったまま離さんかった。『母ちゃんが生きていたら、こんなに温かい手をしていたんかなあ…』。そう思いながら、ずっと握ってた。それほど人のぬくもりが欲しかった」

■教師になることを決意

 心に空洞を抱えながらも、周囲の大人が支えてくれた。小、中学校時代の教師は時折、ふと悲しげな顔をする山口の心情を察して、いつも自宅に呼んでくれた。ご飯を腹いっぱい食べさせてもらい、家に帰りたくない日は、先生の子供と一緒に布団にもぐった。教師に恵まれ、そんな優しさが、うれしかった。

 福井県立若狭農林高(現若狭東)でラグビーと出会い、日大へと進学する。親身になってくれた人々へ恩返しをするため、1年時に教師になることを決意。教職を取ることを考え、日体大への編入を希望したが、当初は「難しいやろうな」と思っていた。しばらくすると、1通のハガキが届いた。学長名で、こう記してあった。

 「あと3年間、日体大で学業を頑張りたまえ」

 特例での編入が認められた。

 日体大時代にオール関東(関東選抜)となり、日本代表入りも期待されていた。卒業時にはトヨタ自動車、近鉄、三洋電機など強豪から熱心に誘われた。だが、どんなに説得をされても、教師になる決意が揺らぐことはなかった。

 「自分の実体験を、今度は教師になって伝えたかった。だから、たくさんの企業から話をもらったが、教員になりたい思いがブレることはなかった。お父さん、お母さんがいない子や、荒れる子の寂しさは痛いほど分かる。その気持ちを抱きながら、生きてきたからね。もし、母親が生きていたら…。ラグビーはしていなかったやろうし、教師にもなっていなかった。おそらく、田舎で農民にでもなっていたやろうな」

■66年に日本代表入り

 岐阜県内の高校で教員を務めていた66年に、日本代表入りを果たした。71年9月28日、ラグビーの母国イングランドを秩父宮に迎え、日本が3-6と大善戦した伝説の試合にも出場している。京都市役所を経て伏見工に赴任したのは、それから3年後のことだった。

 教育に余すことのない情熱を注いだのは、紛れもなく、その生い立ちからである。自分がそうしてもらったように、山口はいつも自宅に生徒を招いた。朝早く家を出て、帰りは遅い。2人の娘がいるが「子供の頃は寝顔しか見たことがなかった」。公立高校の教師の給料はそう多くない。たくさんの部員を連れてくると、困るのは妻の憲子だった。

 「食べ盛りですからね。やっぱりお肉がいるし、お米はいくらあっても足りなかった。大勢でざわざわしていると、寝ていた娘2人が起きてしまってね。よくふすまの間から、こちらをのぞいていました」

 今でも語り継がれる0-112で花園高に大敗した75年、当時1年生だった蔦川譲(58)には、忘れられない思い出がある。

 練習試合で兵庫を訪れると、阪急電車の西宮北口駅前にあったトンカツ屋で腹いっぱい食べさせてもらった。メンバーは20人近く。決して安くはない代金を、山口は自分の小遣いから払ってくれた。

 中京大に進んだ蔦川が2年時に大病を患うと、どこから知らせを聞いたのだろうか。病室に飛んできて、教え子のベッドの横で「大変やったな」と涙を流してくれた。現在、蔦川は兵庫県にある六甲アイランド高でラグビー部顧問を務める。

 「高校の頃は怒られては走らされ、しばかれてはまた、走らされた。でも大学に行き、4年になってようやくメンバーに入ると、自分のことのように褒めてくれた。今でも、生徒と接していると『山口先生ならどうするやろうな』と考えることがあります。あの情熱と愛情を、今の子供たちに伝えてやりたい」

■本気度感じた生徒たち

 “京都一のワル”と呼ばれ、奈良朱雀(すざく)高でラグビー部監督をする山本清悟(57)もまた、意志を継ぐ1人である。

 「『よお泣くおっさんやな』って思っていたんですわ。僕らは『男は人前で泣くもんやない。親が死んだときだけや』って教わった時にね。いつも『また泣いてる。なんで泣いてんねん』って思っていたわけよ。でも、指導する立場になって分かりますわ。涙ってええなって。涙を流せる人間にならなあかんなって。当時は思いませんでしたけどね。涙を流さんやつはあかん。感情の表れですもん。今の子は感性が緩いっていうか、そういうところが時代なんですかね。感じる心。それって大事ですわ」

 80年度の初優勝メンバーで、山口の後継者として伏見工監督を務めた高崎利明(55=京都工学院教頭)は、こう振り返る。

 「僕たちはよく『山口先生と山の天気』なんて言っていたんです。当時はいろんなことがあって、機嫌がころころ変わるからね。でもね、間違いなく、先生はただ単に生徒を殴りつけていた暴力教師ではなかった。僕たちに注いでくれた愛情をね。その本気度を、僕たち生徒は感じていた」

 平成も終わりに近づきつつある現代は、人と人との結びつきが薄れつつある。そんな寂しい時代だからこそ、後世にまで伝えたい。

 伏見工の伝説を-。

 本気で不良生徒と向き合い、愛情を注いできた1人の教師の物語を-。

(敬称略、おわり)【益子浩一】