伝説のラガーマン石山次郎さん、W杯釜石開催に尽力

建設にも携わった釜石鵜住居復興スタジアムに立つ石山次郎さん

 新日鉄釜石ラグビー部で日本選手権7連覇を達成した、伝説のラガーマン石山次郎さん(秋田・能代市出身=61)が「第2の故郷」岩手県釜石市の復興へ尽力している。NPO法人「スクラム釜石」の代表理事として、釜石市に19年ラグビー・ワールドカップ(W杯)日本大会開催地の誘致を提案して、見事、実現にこぎつけた。さらに、自らが現場に立って試合会場である「釜石鵜住居復興スタジアム」の建設にも携わった。スタジアムは7月31日に完成し、19日のオープニングゲームを待つ。釜石の栄光が、ここによみがえった。

 石山さんは、能代工(秋田)に入学し、ラグビーと出会った。「力に自信があったから、16歳でラグビーを始めたけど県大会では1度も勝ったことがなかった」と振り返る。それでも、隣の岩手に拠点を置く名門、新日鉄釜石にスカウトされた。まさかのオファーに驚きながらも、「箸にも棒にも掛からない高校生だった自分を拾ってくれた恩がある」と、決意を固めた。高校を卒業後、釜石市に移り住み、プロップ(PR)として79~85年の日本選手権7連覇に貢献し、日本代表にも選ばれた。チームへの感謝を胸に努力を続け、7年間29試合を、負け知らずで駆け抜けていた。当時の日本代表にも名を連ね、キャップ数は19。多くを語らない人柄や、力強いプレースタイルから「寡黙なる戦士」「鉄人にして哲人」という異名を取った。

 88年の現役引退後は新日本製鉄の社業に専念した。20年間ほど関東を中心に、天然ガスのパイプライン敷設作業などを行った。そして11年3月11日の東日本大震災で釜石市が被災。テレビに映る惨状を見て見ぬふりはできなかった。「何かできることはないか」と考えた末「ラグビーしかない」という結論にたどりつき、新日鉄釜石OBらに声を掛けスクラム釜石を設立した。現在の会員数は14人。発足時の記者会見では「完全復興するまで活動を続ける」と胸を張って宣言した。

 震災の4カ月後には、すでに日本開催が決まっていたラグビーW杯会場の誘致を提案した。当初は仲間から「そんなこと無理だ」と反対された。だが「環境や条件はマイナス面ばかりだが、ここでW杯をやることに社会的意義があるんだ」と説得した。釜石市に「2019年 ラグビー・ワールドカップ開幕戦を釜石で!」と題した活動方針案を提出。それには建設過程での雇用創出などのメリットやW杯招致の意義、資金調達方法などが詳細に記されており、石山さんの「絶対に誘致を成功させたい」という思いが詰まっていた。

 その熱い思いが通じ、釜石市で開催することの社会的意義が認められ、実現の形となった。そして昨年、定年退職と同時に釜石鵜住居復興スタジアムの元請けである大成建設に再就職し、建設に携わった。「管理や指示といったことが得意じゃない。とにかく体を動かすのが性に合っている」と現場での作業を願い出て、測量会社の作業補助に従事した。構造物を建てる前の位置や高さを測量し終わった場所に杭(くい)を打ち込む作業をひたすら続けた。「思いを込めて打ち込んだ。少しずつ出来上がっていくのを見て充実感を覚えた」と振り返る。

 スタジアムは7月31日で無事完成したが、石山さんは手放しで喜んではいない。「実現できたのはすごいこと。ただ、釜石の住民全員が納得してるわけじゃない。このスタジアムが出来てよかったと思ってもらえるようにするしかない」。そのために、今後は「側面からのサポート」を模索していく。釜石市から自宅のある千葉県に戻るが「自分たちに何ができるか考えていきたい。少しでも釜石復興への興味を呼び込めれば」。釜石完全復興を成し遂げるまで、V7戦士の奮闘は続く。

 ◆石山次郎(いしやま・じろう)1957年(昭32)5月22日、秋田・能代市生まれ。能代工高でラグビーを始め卒業後、新日鉄釜石に入りPRとして活躍。日本選手権7連覇を達成し、日本代表にも選出された。176センチ、87キロ。88年の引退後はパイプライン建設に従事。現在はNPO法人「スクラム釜石」代表理事。