選手からアスリートへ 有森裕子が開いたプロの扉

五輪メダリストとして初めてプロ宣言した理由を語る有森さん

<平成とは・五輪編(1)プロ選手の登場>

平成とはどんな時代だったのか。最初に「オリンピック(五輪)」に焦点を当てる。第1回のテーマは「プロ選手の登場」。五輪メダリストとして初めてプロ宣言した女子マラソンの有森裕子さん(52)の証言などをもとに、プロ選手誕生の背景から、選手を取り巻く環境の変化に迫った。

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昭和が終わるころ、陸上界にある騒動が起きた。発端は1987年(昭62)4月のボストンマラソン。優勝した瀬古利彦に副賞のベンツ(450万円相当)が贈られることになった。本人は「女房にプレゼントしたい」と喜んだが、日本陸連が待ったをかけた。当時、選手が試合で賞金や賞品をもらうのはルール違反とされた。紆余(うよ)曲折を経てベンツは所属先の練習用のバスに代えて受領された。

後に女子マラソンで92年バルセロナ銀、96年アトランタ銅と五輪2大会連続メダルを獲得する有森は、この一連の報道が強く印象に残っていたという。「なぜベンツを選手が直接もらえないのか。なぜ連盟が勝手に決めるのか。理解できませんでした」。

国際オリンピック委員会(IOC)が五輪憲章から「アマチュア」の言葉を除外したのは74年。80年代は賞金レース全盛で、84年ロサンゼルス五輪の陸上4冠王カール・ルイス(米国)は、出場料や広告料などで年収5億円といわれた。88年ソウル五輪で復活したテニスにはプロも出場した。そんな時代に日本はまだ「選手はメダルの名誉で十分」という古いアマチュアリズムに縛られていた。

平成に入り、日本オリンピック委員会(JOC)は92年の五輪からメダリストに金300万、銀200万、銅100万円の報奨金を出すことを決めた。しかし、選手を取り巻く環境に変化はなかった。依然として試合の賞金は競技団体が管理し、肖像権もJOCの一括管理が続いた。

風穴をあけたのは有森だった。アトランタ五輪後、CM出演オファーが次々と舞い込んだ。ところが日本陸連とJOCは、JOCの協賛社以外のCM出演等を認めなかった。有森はプロ宣言して抗戦した。「走ることを手段として生きていきたいと思い、自分の価値を生かして仕事をしようとしたら、肖像権が使えないと言われた。選手に選択肢がないのは絶対におかしいと思いました」。見切り発車で選手登録を外れて、CMに出演した。

本来、肖像権は選手に帰属する。しかし、当時、JOCは加盟競技団体の登録選手の肖像権を預かり、「がんばれニッポンキャンペーン」の協賛企業の広告に選手を起用することで強化費を稼ぎ、競技団体に分配していた。協賛金4000万円のうち300万円が当該選手の競技団体に支払われ、選手が手できるのはその一部。96~98年にJOCの事務局長だった笠原一也は「競技団体は育成の段階から強化費をつぎ込んで選手を育ててきた。だから当時は選手は競技団体のものという意識が強かった」と振り返る。

2年余に及ぶ戦いの末、有森は「プロ」の権利を勝ち取った。「最初は“特例”で認めると言われたので、私はそれでは意味がない“前例”なんだと返しました」。所属するリクルートが彼女の生き方を尊重し、粘り強く交渉したことも大きかった。その後、00年シドニー五輪女子マラソン金メダリストの高橋尚子、04年アテネ、08年北京の競泳男子平泳ぎで2大会連続2冠を達成した北島康介らが続いた。

05年、JOCは選手の権利意識の高まりを受けて、肖像権を選手に返還し、新たにJOCに肖像権を預けた選手に年間最高2000万円の協力金を支払う「シンボルアスリート」制度を導入した。室伏広治や谷亮子らのメダリストが名前を連ねた一方、北島やアテネ五輪女子マラソン金メダリストの野口みずきらは契約しなかった。いずれにしても選択は選手側に委ねられた。

平成が終わりを迎えて、体操の内村航平、バドミントンの奥原希望ら五輪メダリストが次々とプロ宣言をしている。16年末に体操界初のプロになった内村の収入は年間推定2億円といわれるが、コーチやトレーナーの支払いを含めた経費はすべて自費。それでも「体操の価値を上げる意味でもプロでやりたいと思っていた。大変さも含めてすごくやりがいを感じている」と、プロという生き方に責任と充実を感じている。

有森がこんなことをぽつりと言った。「平成のある時期から選手はアスリートと呼ばれるようになった。選手という呼び方には、誰かに選んでもらった人という意味もある。アスリートは1人の自立した人。これはプロ化とともに、みんなの意識も変化してきた表れだと思います」。主権は競技団体から選手へ。平成という時代に大きくかじが切られた。【首藤正徳、阿部健吾】(敬称略)

◆有森裕子(ありもり・ゆうこ)1966年(昭41)12月17日、岡山市生まれ。日体大を経て89年リクルート入り。90年大阪国際で初マラソン日本最高(当時)、91年同大会で2時間28分1秒の日本最高(同)。五輪は92年銀、96年銅。99年のボストンで2時間26分39秒の自己ベストで3位。07年に引退。

<プロ転向したおもなアスリート>

◆福原愛(卓球)99年3月に10歳でプロ転向。04年から五輪4大会連続出場。女子団体で12年ロンドン銀、16年リオデジャネイロ(リオ)銅。

◆高橋尚子(マラソン)00年シドニー五輪金メダリスト。01年にプロ宣言。同年のベルリンで2時間19分46秒の世界新記録樹立。

◆北島康介(競泳)04年アテネ、08年北京平泳ぎ100、200メートル2冠。03年にプロ宣言。同年の世界選手権で100、200メートルを世界記録で優勝していた。

◆為末大(陸上)00年シドニーから五輪3大会連続出場。世界選手権で01、05年と2つの銅メダル。03年10月に大阪ガスを退社しプロ転向。

◆国枝慎吾(車いすテニス)08年北京、12年ロンドン・パラリンピックで男子シングルス2連覇。07年に史上初の年間グランドスラム達成。09年に同競技初のプロに。

◆大迫傑(陸上)15年に米オレゴン州に拠点を移してプロとして活動。16年リオ五輪長距離代表。昨年10月のシカゴで2時間5分50秒のマラソン日本新記録。

◆内村航平(体操)16年リオ五輪で個人総合2連覇と団体総合金メダル。同年11月にコナミスポーツを退社し体操選手初のプロに。

◆ケンブリッジ飛鳥(陸上)16年リオ五輪男子400メートルリレー銀メダリスト。同年12月に所属先を退社してプロ転向。

◆萩野公介(競泳)16年リオ五輪で男子400メートル個人メドレー金など3つのメダルを獲得。翌17年1月にプロ宣言。ブリヂストンとスポンサー契約を結んだ。

◆山本篤(パラ陸上)08年北京、16年リオ・パラリンピック走り幅跳び銀メダリスト。17年10月にプロ転向。18年の平昌パラリンピックにもスノーボードで出場した。

◆奥原希望(バドミントン)16年リオ五輪女子シングルスで銅、17年世界選手権では金メダル獲得。19年1月に日本ユニシスを退社しプロ転向。

◆川内優輝(マラソン)世界選手権は11、13、17年に出場も五輪出場経験なし。18年ボストンマラソンで日本人31年ぶり優勝。今年3月末に公務員を退職してプロ転向。