幻の日本人NBA選手、岡山恭崇氏が八村の快挙称賛

79年1月、全日本総合準々決勝の新日鉄戦で好守にわたる活躍で大商大初のベスト4進出に貢献した岡山恭崇

歴史に名を刻んだ「NBA八村」が誕生した。20日(日本時間21日)、NBAドラフトがニューヨーク・ブルックリンのバークレイズ・センターで行われ、八村塁(21=ゴンザガ大)が1巡目9位でウィザーズから日本人として2人目の指名を受けた。

81年に日本人で初めてNBAドラフトで指名された岡山恭崇氏(64)は八村の快挙をたたえた。「すごいこと。38年間誰もいなくて出てきて欲しかった。本当にうれしい。行きたいと思って行っているし、当時とは全然違う」と話した。

岡山氏は当時、歴代日本人選手最長身の230センチのセンターとして活躍。26歳で指名を受けた時には驚いた。「向こうが勝手に選んだだけ。聞いたときは寝耳に水で、何で自分が? と思った」という。当時はNBA所属選手は代表での国際大会に出場できなかった。五輪出場を目指していた岡山氏は「自分は8巡目。当時でもプレーできるのは2位ぐらいまでで、自分なんか無理だと思っていた。契約したら代表で出場できない。会社からも交渉しないように言われた」とNBA入りを断念した。

小学校卒業で180センチを超え、高校業時には2メートルに達した。大学で八村と同じNCAAでプレーするも20歳の時に「先端巨大症」と診断、1軍でのプレーが期待されていたが、帰国を余儀なくされた。住友金属(現新日鉄住金)では、放っておくと心臓に負担がかかるため、治療をしながらプレーを続け、日本代表で長く活躍した。

辛い日々が続いたが、岡山氏は「いい環境の中でプレーできたし、幸せなバスケット人生だった。50センチジャンプできたらNBAに行けたかな」と語る。そう言えるのは、しっかりしたシステムの中で自分で目標を見つけて取り組んだから。八村、渡辺雄太を含め、バドミントン桃田、フィギュアスケート羽生、スピードスケート小平…。海外中心に戦う選手たちにはその強い意識が備わっているからこそ通用すると、岡山氏は語る。「バスケット発祥の地で日本よりもすぐれた環境。言葉もすぐ覚えて、自己主張もしっかりしていないとばかにされる。自分も泣いて帰れないと必死にやった。本場で自分を見つめ直して実績につなげた2人は素晴らしい」と話した。

岡山氏は昨年まで子どもたちの教室など普及活動を行っていた。「今の子どもたちは、やらされている感覚があるからすぐにやめてしまう。個性を磨くのは自分自身。八村にはぜひコートに立って、そんな子どもたちに夢を与える選手になって欲しい」。NBAでプレーする夢をかなえることができなかった岡山氏は熱い思いを八村に託す。【松熊洋介】