桐蔭学園・藤原監督に聞く世代別の指導ポイント/1

「遊びの中から学ばせてあげることが大事」だという桐蔭学園・藤原監督

<ラグビー流 Education>

ラグビーW杯(ワールドカップ)が大詰めを迎える中、毎週日曜日は「ラグビー流 Education」です。今回は高校ラグビーの名門・桐蔭学園(神奈川)を率いる藤原秀之監督(51)に、「世代別の指導ポイント」第1弾として、小学生を対象にした話をうかがいます。ラグビー指導以外にも通じる内容が含まれています。また、元日本代表の今泉清氏(52)は、前回紹介した「タグラグビー」について、ラグビーへの導入以上の効果や可能性の大きさを語っています。

  ◇   ◇   ◇  

普段は高校生を指導している藤原氏だが、夏休みにはラグビー部員とともに小学生らを対象としたラグビー教室にも携わった。そんな中、「スポーツは遊び」であり、子どもたちには「遊びの中から学ばせてあげるのが大事」という。

藤原 ルールがあれば、子どももその中でやる。ただ、それが自分たちでつくったルールなのか、大人がつくって与えたルールなのかで違う面があります。

自分たちでつくったルールなら遊びの延長。大人が上から目線で与えたルールだと、時に子どもは退屈がったりもする。では、子どもが聞く耳を持ちやすい、吸収しやすいようにするアプローチ方法とは?

藤原 まずはいかにシンプル、わかりやすくするかでしょう。そして、何を言ったら子どもが喜ぶか、そういう言葉の選び方ではないかと思います。

子どもが喜ぶ-。笑いをとって、盛り上げるというのも一手だ。ご褒美をチラつかせる「ニンジン作戦」が有効な場合もある。一方で、好奇心を刺激するという手もあるという。

藤原 例えば高校生相手に1対1から抜く練習をさせる時、「この人(高校生)はすごい人なんだよ」と言って、やらせてみる。小学生は背伸びしたがる時期で、そこを少しくすぐるわけです。伸ばすために、ちょっとハードルを上げてみるのは大事でしょう。何事も少し上の学年とやると、面白いんです。僕も小学生の頃、4つ年上の姉の同級生と野球をやるのが、本当に楽しかった。ボールが見えなくなるまで、夢中でやっていました。

年上のプレーを見て、まねて、吸収して、自分もうまくなる。それがさらに喜びを生み、子どもを夢中にさせる。ラグビー教室でも高校生相手に小学生は夢中になって走り、ボールを追いかけていた。

また、ラグビー教室では「紅組、白組」などではなく、1人1人固有名詞で呼ぶようにしていた。

藤原 粘着テープに名前でもニックネームでもいいから書いて、胸と背中につけてもらった。すると高校生が弟に接するように名前で呼んで、グッと距離も近づく。特に小学生は、名前で呼ぶことに大きな意味があると思います。名前で呼ばないと、誰に対して話しているのかわからないから、伝わりにくい。

これも「1人1人に向き合う」ということだろう。

スポーツの習得には「ゴールデンエージ理論」というものがあり、神経系の発達は12歳くらいまでに形成されるという。特に4~8歳でいろんな体の動きをする方が、いわゆる運動神経のいい子になるとされる。

今泉 日本の子どもの場合、この世代で走っていないことが多い。先進国の中で最も基礎体力が低いともいわれます。その中、45分間で最も走る量が多かったのがタグラグビーだった。それで小学校で導入されるようになったんです。

投げる、受ける、走る、ステップを切るなど、タグラグビーにはさまざまなスポーツの要素が含まれている。4~8歳にタグラグビーをやっていると、将来的にラグビーはもちろん、野球やサッカーなど他のスポーツにも有効だという。同時に今泉氏は大人にもタグラグビーを勧める。

今泉 年齢や男女に関係なくできるので、病気にならない体をつくる、予防医学としても有効。60代だってできます。正式なルールは1チーム4人だけど、人数を増やしたり、男女混成にしたり、変則ルールで楽しむ幅が増えます。40歳以上を必ず1人以上入れましょうとか、逆に15歳以下を入れましょうとか…。家族でチームをつくれたらいいですね。1人でジムに行くより楽しいはずです。

タグラグビーは、ラグビー選手を目指すためだけでなく、子どもの体づくり、大人の健康増進にも役立つと推奨している。

◆藤原秀之(ふじわら・ひでゆき)1968年(昭43)東京生まれ。大東大第一高でラグビーを始め、85年度全国選手権でWTBとして優勝。日体大に進む。卒業後の90年に桐蔭学園高で保健体育の教員、ラグビー部のコーチとなり、02年から監督に。同部は昨年度まで全国選手権17度出場。決勝進出6回、10年度優勝時のメンバーに日本代表の松島幸太朗ら。今や「東の横綱」と呼ばれている。

◆今泉清(いまいずみ・きよし)1967年(昭42)生まれ、大分市出身。6歳でラグビーを始め、大分舞鶴高から早大に進み、主にFBとしてプレースキックなどで大学選手権2回優勝、87年度日本選手権優勝に貢献。ニュージーランド留学後、サントリー入り。95年W杯日本代表、キャップ8。01年に引退した後は早大などの指導、日刊スポーツなどでの評論・解説、講演など幅広く活躍。