永遠ライバル北海&札商ホッケー五輪代表11人輩出

64年東京五輪での日本代表の試合

日本ホッケー界の一時代を北海道の高校が担っていた時期があった。オリンピアン出身高校で道内最多8人を輩出した札幌商(現北海学園札幌)から7人、北海から4人のオリンピック(五輪)日本代表が生まれた。64年東京大会は両校合わせて一挙6人のOBが代表入り。ともに100年の歴史を誇る兄弟校の歴史は、そのまま北海道におけるホッケーの盛衰と重なる。

直線距離で約400メートル。同じ敷地内に、日本ホッケー界の歴史から切り離せない2校のホッケー部が存在した。1927年(昭2)創部の北海と翌28年に生まれた札幌商。北海OBで60年ローマ大会から五輪3大会連続出場の勇崎恒也(78)は言う。「1校じゃここまで優秀な選手は出なかった。大学もあったけど、(当時は)高校生の方が強かった」。全国制覇は北海が2度、札幌商が8度。両校合わせて11人の五輪代表を送り込んだ。

北海道にホッケーの息吹が芽生えたのは北海創部前年の26年(大15)。日本協会が発行している「日本ホッケー100年」によると、北大アイスホッケー部員が夏季の鍛錬に取り入れたのが始まりだった。地域は札幌周辺と限定的だったが、大学や高校にホッケー部が誕生し、徐々に競技は根付いていった。勇崎は「高校2年ぐらいまでは、6月の北海道神宮のお祭りの時に大通公園で(札幌商と)定期戦があった。観衆はいましたね。場所が場所でしたから」。

活況はそのまま競技力の向上につながった。学校を卒業して明大や法大といった強豪に進んだOBは、夏休みなどの長期休暇で高校に戻り後輩たちを指導した。勇崎の高校時代は、社会人の先輩が仕事終わりに毎日練習を見てくれた。「そろそろ練習を上がろうかと言うときに来るんですよ。暗いとボールが見えないので、石灰をつけてやっていた。本当にボールが見えなくなるまでやっていた」。徹底的な練習量と次世代を育成する熱意によって、強豪校としての歴史を歩んだ。

札幌商(現北海学園札幌)の監督、渡辺健一(51)は北海との関係性を「永遠のライバル」と称する。札幌商は7人の五輪代表を生んだ。就任30年目を迎えたが、北海とは練習試合をしたことがない。勇崎は「お互いに強かったから、偵察してですね。探り合いをしていた」。ライバル関係が日本代表を輩出する下地にあった。

64年の東京大会は両校OB合わせ6人の日本代表を輩出。栄光の一時代から半世紀を経た2014年(平26)、北海は部員不足などから休部に追い込まれた。勇崎は「(道内の)教育大学にホッケー部がなかった。それが一番の境目、メジャーにならなかった原因じゃないかな」。両校部員が道外強豪大学に進学したことが、結果的に道内において指導者を養成できなかったと分析する。競技未経験の渡辺が「自分の母校ですから伝統のある部活をなんとかしたい」と正規部員5人だった札幌商監督に就任した際、イロハを教えたのは他ならぬ勇崎だった。ライバル校への指導。OB会からは反対の声もあったという。

20年東京五輪は1つの転機。北海の休部を「日本のホッケーを支えてきた学校の1つが消えるというのはすごく寂しく感じた」と受け止めている渡辺は、日本協会で理事を兼ねる。毎週末、東京に出張して五輪後のホッケー振興を担うプロジェクトの中心として動いている。北海道協会も北大と連携して、ジュニアホッケー教室を開催するなど裾野を広げる取り組みを始めている。再び北海道をホッケー王国に-。かつてのライバル校は足並みをそろえていく時がきた。(敬称略)【浅水友輝】

◆勇崎恒也(ゆうざき・つねや)1941年(昭16)2月10日、札幌市生まれ。北海中までは野球、北海でホッケーを始める。五輪は60年ローマ(14位)64年東京(7位)68年メキシコ(13位)の3大会連続出場。ポジションはDF。82年から90年まで日本代表監督。04年アテネ五輪に初出場した女子の強化部長を最後に、日本協会の役職から離れる。弟勝弘も東京、メキシコ大会に出場。現役当時は173センチ、67キロ。家族は夫人と1男2女。

◆北海道の高校ホッケー事情 1926年に北大ホッケー部初代主将の岡村正家らが同大アイスホッケー部の夏季練習として取り組んだのが始まり。高校は北海、札幌商のほか、正確な資料で残されている限りで28年創部の苫小牧工、同55年札幌北斗、同58年札幌慈恵女(現札幌新陽)、同86年恵庭北と、創部年不明の北海道日大(現北海道栄)が存在したがいずれも廃部、休部となっている。現在活動を続けている高校ホッケー部は男女の北海学園札幌、女子の江別のみ。

◆北海高&札幌商ホッケー部 昭和初期の創部から両校ともに全国的な強豪。国体優勝は北海が2度(51、54年)札幌商が4度(47、48、61、64年)。札幌商は04年に北海学園札幌と改称し、現在は男子で道内唯一のホッケー部として活動。18年国体では21年ぶりの4強に進出した。部員は男女合わせて21人。男子は2年生7人、1年生5人。

【道産子オリンピアン出身高校アラカルト】

◆格闘技王国 旭川南は、柔道で96年アトランタ女子61キロ級金メダルの恵本祐子、04年アテネ、08年北京女子70キロ級金メダルの上野雅恵ら4人。68年メキシコ出場の中田茂男らレスリング勢2人を加え、格闘技系だけで計6人を輩出。

◆出場1号 1920年アントワープのマラソンに出場した小樽中(現小樽潮陵)の八島健三が道産子初出場。同校は32年ロサンゼルスのボート榎本吉夫、36年ベルリン馬術の大瀧清太郎、同水球の高橋三郎、60年ローマのレスリング北村光治ら、多彩な競技で輩出している。

◆金メダル1号 北海中(現北海)出身の南部忠平が32年ロサンゼルス男子3段跳びで、道産子初の金メダルを獲得した。

◆1大会複数出場 68年メキシコのホッケー代表に勇崎勝弘ら札幌商が4人。16年リオデジャネイロ女子バスケットボールに、札幌山の手から町田瑠唯、本川紗奈生、長岡萌映子の3人が出場。