24歳「侍」ラガー、最期まで闘い逝った熱き生涯

24歳でこの世を去った中井太喜さん

7年前の13年5月12日。24歳の現役ラガーマンが、胃がんで早すぎる生涯を終えた。ひたむきなタックルで見る者の心を揺さぶり、将来の日本代表入りが期待されていた。わずか1カ月の闘病では、弱い姿を見せることなく、黙々と最後まで戦う「侍」だった。命日に集まった周囲の証言。これは誰もが尊敬を示し、今も愛され続けている男の歩みである。

【取材・構成=松本航】

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その時、病室の窓から朝日が差し込んだ。13年5月12日、よく晴れた日曜の朝だった。ぬくもりを感じる光が、短すぎる24年の足跡を照らしているようだった。

生きる-。最後は正気だったのか、薬の副作用による幻覚だったのかは分からない。それでも人工呼吸器を付け、183センチの体を激しく揺さぶった。酸素を必死に吸い続けた。2人の兄と姉に見守られ、息を引き取ると、穏やかな顔になった。直後に太陽が全身を包んだ。そこには、あれほどの愛情を注いでくれた父も、母もいなかった。生まれ育った大阪・枚方市の病院で最後の最後まで闘った。暗闇ではなく、明るくなった空へと、吸い込まれるようにして旅立った。

わずか1週間ほど前、兵庫の病院から転院したばかりだった。運転していた4歳年上の次男・直道は、大阪へ向かう車が阪神高速を走っていた時のことを忘れない。

「『オカンの病院に寄れるけど、どないする?』って聞いたんです。次、いつ会えるのか分からない。それでもアイツは『こんな状態は見せられへん。心配させてまうし。治ってからでええわ。枚方の病院に行ってくれ』と言ったんです」

4カ月前の1月、母の陽子がくも膜下出血で倒れた。大阪・四條畷市の病院に入院していた。少し先の分岐点を曲がれば、顔を見せにいくこともできた。だが、心配をかけまいと、病気を伝えていなかった。

全ての始まりは3月21日、24歳の誕生日だった。兄弟2人ですし屋に向かい、酒を飲んで語り合った。そこで、普段は弱音を吐かない弟が「最近、腰が痛いねん」と漏らした。数日後に突然、相談の電話が来た。

「朝早くて『珍しいな』と思ったんですね。そうしたら『悪性リンパ腫かもしれん』って言ってきて…」

すぐに兵庫医大病院で精密検査を受けた。診断が出たのは4月10日。偶然か、運命か、1年前に他界した父・昭彦の命日だった。特別な日に、直道の携帯電話が鳴った。担当医からだった。

「いきなり『肝臓、骨、リンパ…。全部ですね』と言われました。『何でやねん』っていう感情ですよ」

父は末期がんで3年ほど闘病していた。そうして天国へ旅立ち、母が倒れ、弟も病魔に襲われた。冷静でいられるはずがない。だが、重要な決断を強いられても、兄に迷いはなかった。

「医者に『本人に宣告しますか?』と聞かれました。『してください。中途半端な人生、送ってきてませんから』と伝えました。翌日に僕から『がん、だいぶ進んでるらしいぞ』って切り出しました。医者の説明も聞いて、ステージ4ということも本人は知った。でもね、アイツは『そうですか。闘います』と言ったんです」

宣告から、わずか1カ月後の5月10日。息を引き取る2日前のことだった。医師に大きな選択を迫られた。薬の投与量を、最大限まで引き上げる“最後の治療”に託した。

「今晩が最期になるかもしれません」-

面会時間が終わると、病院の駐車場に戻った。毎晩、寝るのは車中だった。そこにはいつも、弟の友人が20人ほど駆けつけていた。現状を伝えると、涙する者もいた。

「そうやって夜が明けて、病室に行くでしょう? アイツは『あぁ、しんどかった』って言いながら、フルーツジュースを飲んでいるんです。今も忘れません。死ぬ4日前まで『すし食いたい』って言って、女の子の話もしていた。弱音を一言も吐かずに、最後まで希望を持っていたんです」

近鉄フランカーの中井太喜とは、そんな男だった。

夢は警察官。かつて、ラグビー部が関西の強豪だった大阪府警を目指していた。京産大4年時の長野・菅平合宿で、近鉄の採用担当の目に留まった。トップリーグへの道は突然開けた。入社1年目の11年。寡黙だった男が、酒席で本音を漏らした。当時主将だった高忠伸(現清水建設)は、後輩から相談を受けた。

「お世辞にもセンスがあるタイプじゃない。『どう生き残っていったらいいですかね?』と聞かれたから『タックルいきすぎて、脳振とうで引退するぐらいでええやん』と。恐怖心のないプレーが持ち味でしたから」

大阪・啓光学園高(現常翔啓光学園)でラグビーと出会い、毎朝6時から練習する京産大で鍛え上げられた。当時の監督だった大西健も、その才能を認めた。

「昔でいう侍。男がほれる選手でした。無駄口をたたかず、とにかく淡々と練習をする。がんと闘っていたお父さんが時々、抗がん剤を打って見に来ていました。特にその試合のタックルはすごかったんですよ」

言葉にできない親への思いを、タックルに込めていた。向かってくる敵が誰だろうと、勝負が決していようと、常に体を投げ出した。その姿は、近鉄入りしてからも変わらなかった。監督を務めていた前田隆介は、こう振り返った。

「2012年のシーズン前、日本代表のヘッドコーチに就任したばかりのエディー・ジョーンズが視察に来たんです。『若くて、面白い選手がいたら教えてくれ』と言われたんですよ」

日本が南アフリカから歴史的勝利を挙げるワールドカップ(W杯)イングランド大会の3年前。19年の日本大会へと続いていく、大きな転換期だった。前田は迷わずに推薦した。

「あの時に『中井という選手がいる。体は大きくないけれど見ていてほしい。2年目のシーズン、やってくれると思う』と伝えたんです。実際にその年、公式戦の全15試合に出て監督賞に選びました。ライナーズを引っ張り、代表クラスになると思っていましたから。駅員だった鶴橋駅にも、ファンは多かった。みんなに応援される選手でした」

まさか、そのシーズンが最後になるとは思ってもいなかった。監督賞を手渡した3カ月後の5月14日。葬儀で前田は、チームを代表して弔辞を読んだ。涙で言葉にならなかった。

「中井、悔しいよな。24歳になったばかりだよな。あなたの勇姿は特別でした。入院する前にスタッフルームに来て、笑顔まじりで『必ず戻ってきます』と言っていた姿。お見舞いの際に、痛みで苦しい状況にもかかわらず『必ず勝ちます』と息を切らしながら発してくれた気持ちの強さ。絶対に忘れません」

葬儀場で近鉄の私設応援団が団旗を振った。霊きゅう車が出発する時、京産大で4年間を見続けた当時63歳の大西が突然、叫んだ。

「太喜~~~!!」

その声に、皆が涙した。

中井がこの世から去った日、母の陽子も集中治療室(ICU)にいた。1月にくも膜下出血で倒れ、病室とICUを行き来する状態が続いた。息子の大学時代には他の母親らと集まり、練習後に部員へ鍋を振る舞った。わが子の活躍が生きがいだった。入院後もラジオを持ち込み、花園ラグビー場でプレーする様子に耳を傾けたほどだった。

だが、母は、葬儀にさえ出られなかった。

その夏、息子の死を知らずに退院した。兄の直道は全てを伝えるべきか、悩み続けた。弟の命日から、3カ月ほどが過ぎていた。直道は母へ、真実を告げた。

「ある日、母親が急に『太喜、最近どうしてるかな』と言ったんです。後遺症でろれつが回らない状態。末っ子で一番かわいがっていたし、ショックを受けると、その後どうなるかも分からなかった。最後の最後まで悩みましたが『実は亡くなった』と伝えました」

あれから7年がたった。現実を知った母は今も悲しみを抱えながら、静かに生きている。残された兄弟は父の事業を引き継いだ。その後、独立した直道は、新型コロナウイルスの影響で大打撃を受けた。それでも、まるで生前の弟のようにひたむきだ。

「今でもこの時期は嫌いですよ。でも、人生どれだけ大変なことがあっても、あの時を考えたら乗り越えられる。医者は太喜のことを『3カ月前に亡くなっていてもおかしくなかった』『タックルして、その場で死んでいたかもしれん』と言いました。アイツはそれでも、下を向かなかった」

中井太喜。彼を永遠に忘れない。(敬称略、完)