野球界からバスケ界転身「笑顔集う場を」不変の思い

11年4月29日、楽天-オリックス戦で、風船が高々と空に舞うKスタ宮城

<あれから10年…忘れない3・11~東日本大震災~>

Bリーグ・シーホース三河(愛知・刈谷)のシニアコーディネーター、堀江隆治さん(52)は、東日本大震災当時、プロ野球・楽天のスタジアム部長を務めていた。興行や球場管理の責任者として携わった復旧作業の激務がたたり、体を壊し球団を退職。転職を経て、プロバスケットボールの世界に飛び込んだ。堀江さんの10年に迫る。

ウィングアリーナ刈谷には、ワクワクした空気が満ちていた。2月13日、強豪アルバルク東京を迎えた一戦。試合開始まで1時間を切った。青いレプリカユニホームをまとうブースター(ファン)たちが、入場口に列をなす。グッズ売り場は盛況。ヒーローを予想する投票所もにぎわい、キッチンカーの匂いが食欲をそそる。さあ、始まるぞ-。

10年前、楽天を担当していた記者は懐かしさを覚えた。まるで、Kスタ宮城(現楽天生命パーク宮城)じゃないか。「お久しぶりです。お互い、年を取りましたね」。堀江が、穏やかな笑顔で出迎えてくれた。

   ◇   ◇   ◇

仙台へ向かうワンボックスは暗かった。「大丈夫。お父さん、見つかるよ」。行動を共にする部下を励ましながら、堀江はハンドルを握った。同僚の携帯が鳴る。「お父さん、家に水が入ってきた」「高いところ、逃げろー!」。車内に絶叫が響く。急がねば。

2011年3月11日、午後2時46分。堀江は兵庫・明石の球場にいた。ロッテとのオープン戦の興行責任者だった。7回表終了時、宮城県沖で地震発生の速報が流れた。数分後、明石も揺れた。2日前にも仙台は大きく揺れていた。胸騒ぎがする。球団事務所と、つながった。「球場、結構ヒビが入ってます」。次第に情報が集まり、深刻さを理解した。レンタカーを手配し、水や食糧を積み、2時間後には明石を後にした。

北陸経由で山形へ。高速道路は緊急車両ばかり。何度か警察に止められたが、事情を伝えると心配してくれた。16時間後、やっと球場に着くと、テントを張って避難者を受け入れていた。若い職員たちの自発的な行動に「成長を感じ、鼻が高かった」。ただ、ここからが困難の連続だった。

1週間かけ、被害状況を調査。三塁側の貯水タンクが倒れ、約5トンの水が漏れていた。バックネット裏の屋根を支える柱26本が折れ、ひびは数え切れない。資材、重機、人のメドも立たない。何より葛藤があった。「球場の復旧を急ぐことで、他の復旧が遅れたと思われたくない」。社長の島田の言葉に迷いが消えた。「いち早く野球を始めたら復興ののろしになる」。避難所にいた職人たちも「俺たちが造った球場だから」と力を貸してくれた。

4月29日に決まった仙台開幕へ向け、不眠不休だった。球場に泊まり込み、帰宅は週2日のみ。運営マニュアルや演出内容の作り直し、壊れた備品の調達等々。ヒゲをそる暇もなかった。「気が張って、その時は全然つらくなかった」。義理の母は行方不明。後に病院で再会できたが、不安を抑えつけていた。

迎えた本拠地開幕。あちこちで、ファン同士の無事を喜ぶ声、さらに「毎日つらくて楽しみがなかった。球場を直してくれて、ありがとう」の声に救われた。

しかし、激務は確実に体をむしばんでいた。

12年シーズンが終わった11月だった。事務所で胸に激痛が走った。「うー…」。同僚がタクシーで病院へ駆け込んでくれた。不整脈。心筋梗塞寸前だった。1泊のつもりが、そのまま長期入院となった。

「50歳までに車椅子になる可能性が高いです」。医師の言葉に耳を疑った。確かに、ヘルニアの持病はある。が、片足がまひし、手の感覚もないことを伝えると、検査に回された。背骨の靱帯(じんたい)が骨化する病が判明した。痛み止めを飲みながら、激務を続けたことが心臓に負担をかけたようだ。当時44歳。「まだ子どもも小さいのに。どうしたらいいんだ」。手術は難しかった。

悪化の一途。翌年1月に退院したが、職場には戻れなかった。主治医から、東京の病院なら新しい治療法で良くなるかもと言われた。球団は東京のグループ会社出向を提案してくれた。だが5月、退職を選んだ。

慰留を断った。「今にして考えると、辞めなくてもよかったのかな。でも、歩けないのに戻っても迷惑。早く治さないといけないのに、仙台では治せない。球団が好きだったんでしょうね。球団を離れるなら、もういいやと。捨て鉢だったのかな。ははは」。今は笑って振り返るが、球団立ち上げから関わった堀江にとって、つらい決断だった。

楽天時代の同僚が東京で始めたEC系のベンチャー企業に誘われた。7月から単身赴任し通院しながら働いた。「慣れないつえをつき電車通勤」はしんどかったが、3年目に“奇跡の回復”。短い距離ならつえは不要となった。再び転機が訪れる。

「会社には『3年ぐらいお世話になるね』と言ってたんです。また動けるようになり、疲れもストレスも取れてきた。50歳が迫り『あれ、俺、人生たそがれてる?』と。そこで原点に戻ろうと。自分がやりたい仕事はプロ興行だと」。16年6月に退職。歯車がかみ合い出す。直後、三井物産フォーサイトから声がかかった。Bリーグ参入で実業団(アイシン精機)からプロ化するシーホース三河がクラブ運営の担い手を探している、とオファーされた。

アリーナの片隅に座り、10年を振り返る堀江の目の前で、試合後のイベントが始まった。子どもたちがコートを走り回る。「堀江さん、これ、フィールドキャッチボールじゃないですか」「そうです。子どもってプロの選手が触っていたモノに触りたい。成功事例として残ってたからね」。球団立ち上げから培ったノウハウを惜しみなく注入。三河のファンクラブ会員数はリーグ最多を誇る。「感無量ですよ。仙台で20人ほどの仲間と一緒に始めたことが、どこでも通用すると分かった」と笑った。

「震災から10年で思うことは何ですか」「すごく昔のことに思うけど、まだ10年かとも思います。今でもテレビで被災地の様子が流れると、胸が締め付けられます」。球場前で、友だちが来るのを信じてキャッチボールを続ける男の子がいた。身元不明者の財布に年間シートの半券が入っていたと、警察の問い合わせが続いた。「あの時ほど、死が身近にあった時はないですね」と涙ぐんだ。

「これからの10年でやりたいことは何ですか」「早く新しい専用アリーナを造って、もっともっと、いろんな楽しい仕掛けをやりたい。ワクワクしてます」。

   ◇   ◇   ◇

何が突き動かすのだろう。「球団をつくった経験を面白かったという思い出話にしていいのか。ゼロから始める経験は、なかなかない。誰かに伝えるまでは死ねない。責務というか」。

楽天が日本一に輝いた13年の日本シリーズ第7戦。転職先の同僚たちと都内のレストランに集まった。中継を見ながら、涙があふれ出た。田中の両手が突き上げられると、限界だった。店を飛び出し、夜の渋谷で号泣した。「その場にいたかったな。仙台にいたかったな」。体さえ壊していなければ…。だが、こうも思う。「1つの運命だったんでしょう。新しいメンバー、新しい競技で、笑顔が集う場を作ることができた」。仙台で咲かせた花を、三河でも咲かせてみせる。(文中敬称略)【取材・構成=古川真弥】

◆堀江隆治(ほりえ・りゅうじ)1968年(昭43)7月1日、宮城・仙台生まれ。法大からマクドナルド入社。各店舗で店長を務める。04年、球団創設とともに楽天入社。05年球場長、08年スタジアム部長、12年MD部長、13年5月退社。同7月スターフェスティバル入社。16年6月に退社し、三井物産フォーサイト入社、シーホース三河シニアコーディネーター就任。家族は妻と1男1女。