想像絶する母校校舎、桃田賢斗が第2の故郷から再起

東日本大震災10年を前にインタビューに応じるバドミントンの桃田(2020年3月6日・代表撮影)

<あれから10年…忘れない3・11~東日本大震災~>

東京五輪代表のバドミントン男子シングルスの桃田賢斗(26=NTT東日本)が、東日本大震災から10年に合わせ、インタビューに応じた。当時通っていた福島・富岡高は被災。自身の生活や練習環境など大きな影響を受けた。この10年は、謹慎や交通事故、手術など激動の日々を過ごした。その間、心の支えとなったのは第2のふるさと福島県。元気や感動を届けるべく、五輪の大舞台で金メダル獲得を誓った。

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当時高校1年だった桃田は、異国の地で惨状の報に接した。インドネシアでの強化合宿中、現地のチーム関係者が血相を変えて呼びに来た。何事かと思いながら見たテレビ画面には、中学から過ごす東北地方が、地震と津波に襲われる様子が映し出されていた。

桃田 その時のテレビには仙台空港が映っていて、(津波で)ほとんど流されているような感じだった。最初は何が何だか分からない感じだったけど、地名とかは聞き取れ、地震が起きて津波が発生したんだと少しずつ理解した。

福島県で過ごすチームメートたちは無事なのか。急いで連絡したものの、回線が混み合ってなかなかつながらない。ようやく連絡がついたころには、すっかり夜になっていた。

桃田 このまま帰れないかもしれないと言われ、すごい孤独感があった。ずっとインドネシアに取り残されるという孤独感は今でも忘れない。

なんとか翌日に帰国できたものの福島県には戻れず、香川県の実家に身を寄せ、その後は一時的に富山県で生活。事故が発生した東京電力福島第1原発は、学校からほど近い場所にあり、不安と混乱が胸に交錯する中、日々を過ごした。

桃田 チームの人たちは大丈夫かなと。原発が爆発した時は本当にやばいんじゃないかと、ぞっとした。

震災発生から数カ月がたち、富岡高バドミントン部は猪苗代町に拠点を移して活動を再開。転校を選択した選手もいたが、桃田本人は福島県に戻ることに一切の迷いはなかった。

桃田 久しぶりにチームメートと会ったときは、めちゃくちゃ感動した。チームメートというより家族みたいな感覚で、すごく雰囲気も良かった。そこから本当に濃いバドミントン生活ができた。

練習環境が大きく変わった中でも成長を続け、精神的にもたくましさを増した。高校3年時にはインターハイ男子シングルス初優勝。そして国際大会でも、世界ジュニア選手権で日本選手として初優勝の快挙を成し遂げた。

高校を卒業して福島県を離れ、社会人となったあとも、国内外の大会で活躍。その頃に1度、桃田は母校の校舎を訪れたことがある。そこには想像を絶する様子が広がっていた。

桃田 ショックだった。棚や机や椅子が全部倒れて、自分が座っていた席なんかも全部ぐちゃぐちゃ。机の中身も全部出ていた。体育館も照明が全部落ち、ガラスが割れていて。言葉が出なかった。悲しかった。

そういう中でも、前向きな気持ちにさせられる光景もあった。

桃田 仮設住宅でたくましく生活している人がいて、すごいなと。地震があり、津波が来て、他にもいろんなことがあったと思う。何から手を付けていいのか分からないような状況から少しずつ復興していって。まだ全然完全ではないとは思うけど、人の力はすごいなと感じた。

自身は失敗も犯した。16年夏のリオデジャネイロ五輪での活躍が期待されていた中で、同年春に違法賭博問題が発覚。結果的に1年間の出場停止処分を受けた。そうした中でも、恩師や後輩たちの存在は支えとなった。

桃田 (母校で指導する)本多先生からも「もう1回頑張れ」といった言葉をいただいて。何か自分でできることはないかと思った時に、スパーリングパートナーでも何でもいいから力になりたいと、猪苗代町に練習に行かせてもらった。結局、自分が刺激をもらって帰るという形になった。キラキラした後輩を見て自分に活が入った。

後輩たちの手本となる存在になるべく、原点に立ち返った。復帰後、再び国内外の大会で快進撃を続けると、18年には世界選手権で日本男子シングルス初の金メダルを獲得。世界ランキングトップにものぼりつめた。

翌19年全英オープンは、日本時間3月11日に決勝が行われた。特別な日に行われた重要な試合のことを、今でも覚えている。

桃田 試合前には、震災からこういうことがあったなとか思い出して。そういう人たちに少しでも見てもらえているなら、少しでも元気を与えられる試合をしようと思った。

結果は見事に優勝。バドミントン界で最も伝統を持つ大会で、日本勢として初めて男子シングルスで頂点に立った。

桃田 正直、現場に行って復興支援を手伝えるわけではないので、結果で恩返しするしかない。スポーツは見ている人に元気や感動を与えられると思うので、そういう面では少しは力になれたのかなと思う。

東日本大震災発生から、まもなく区切りのときを迎える。さまざまなことが起きたこの10年、「第2のふるさと」である福島県のことが常に意識にあった。昨年1月には、遠征先のマレーシアで交通事故に巻き込まれ、大けがを負った。眼窩(がんか)底骨折と診断され、手術を受けた。コロナ禍で東京五輪をはじめとする国内外の大会の延期や中止が相次いだ。そんな中、後輩たちと夏のひとときを過ごした。

桃田 ふたば未来高(旧富岡高)で練習させていただいたことは本当にエネルギーになった。バドミントンが本当に楽しいと再確認できた場所なので印象深い。中学生から6年間を過ごした福島県は、第2のふるさと。僕のバドミントン人生は福島県で培われたと言っても過言ではない。本当に自分を成長させてくれた場所と思う。

東京五輪まで残り約4カ月。今月17日開幕の全英オープンでは、国際大会復帰戦に臨む。被災地への思いも胸に、大一番に向けて研さんを積む毎日だ。

桃田 10年の節目で、自分の状態がすごくいい時に東京で五輪が開催されるというのは何かの縁がある。前回大会(リオ五輪)の時は本当に迷惑を掛けてしまった。そこを挽回できるように責任感を持って、2倍感動を与えられるように頑張りたい。元気や感動を与えられるような試合をして、金メダルを取れたらいいなと思う。

◆桃田の10年

・11年3月11日 福島県富岡高1年時、インドネシア合宿中に東日本大震災発生

・12年11月 世界ジュニア選手権で日本人初優勝

・13年4月 高校を卒業し、NTT東日本に入社

・15年4月 シンガポール・オープンで日本男子初のスーパーシリーズ制覇

・15年12月 全日本総合選手権初優勝

・16年4月 違法賭博問題が発覚し、無期限出場停止処分を受ける

・17年5月 復帰戦となった日本ランキングサーキット大会優勝

・18年8月 世界選手権(中国・南京)男子シングルスで日本男子初の優勝

・18年9月 世界ランキングで日本勢初の男子シングルス1位になる

・19年3月 全英オープンで日本男子初の優勝

・19年8月 世界選手権(スイス・バーゼル)で日本男子初の連覇

・19年12月 全日本総合選手権2連覇。ワールドツアーファイナルで2度目の優勝。主要国際大会11勝目となり、のちにギネス認定。東京五輪代表も確実とする

・20年1月 遠征先のマレーシアで交通事故に巻き込まれる

・20年2月 日本代表強化合宿に参加。練習で「シャトルが二重に見える」と訴え、病院で検査を受け、眼窩(がんか)底骨折と診断される。手術を受け、そのまま入院

・20年12月 復帰戦の全日本総合選手権で3連覇

・21年1月 タイ遠征出発直前、新型コロナウイルスのPCR検査で陽性反応。

◆桃田賢斗(ももた・けんと)1994年(平6)9月1日、香川県三豊市生まれ。小学2年からバドミントンを始める。福島・富岡高3年の12年世界ジュニア選手権で日本人初の優勝。19年ワールドツアーで年間11勝を挙げ、東京五輪出場を確実にした。家族は両親と姉。175センチ、68キロ。