古賀稔彦さん 左ひざ負傷おし五輪金メダル/復刻

1992年8月2日付紙面

1992年(平4)バルセロナ・オリンピック(五輪)柔道男子71キロ級金メダルの「平成の三四郎」こと古賀稔彦氏が死去した。53歳だった。

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古賀氏の金メダル獲得を伝えた92年8月のバルセロナ五輪当時の日刊スポーツを、復刻版としてお届けします。

<男子71キロ級決勝>

■古賀稔彦(日体大助手)優勢 ハイトシュ(ハンガリー)

奇跡を起こした。感動に包まれた拍手の真ん中で古賀稔彦が、両手を高々と上げ、その手で顔を覆った。歩くことさえ満足にできなかった左ひざのけが。だれが、金メダルを予想したろうか。

一度も足を引きずらなかった。痛み止めの注射を2度打ち、テープをふだんの3倍も巻いていたが、一般の人なら1カ月は動けない重傷だった。それが、畳の上ではそぶりさえ見せなかった。

ソウルでの惨敗。人一倍の責任感。主将の立場。内面にも周囲にもあったものを、すべて背負って痛みに勝った。

「けがをしていても、なんとか勝つ方法はないかと、先生方に相談しました。こうした状態では妥協は許されないし、絶対あきらめないようにという気持ちを自分と相手にぶつけたかった。決勝は、正直言って分が悪いと思いました。でも審判を見ると、自分の気持ちが通じているように感じました。願うように判定を待ちました」。

試合終了直後の涙が乾いて、会見ではよどみなく冷静に言葉が出てきた。前日優勝した後輩・吉田のことを聞かれて一瞬言葉を切った。「けがをしたのは吉田との練習だったので、あいつは責任を感じていた。早くけがが治るようにいつも祈っていたという後輩の気持ちを聞いて、今回は本当にいい優勝をしたなと思います」。こんな心が、奇跡を生んだのだろう。

一夜明けて、金メダルの代償の大きさが判明した。1日午前2時、選手村に戻って痛みがぶり返し、痛み止めと睡眠薬で就寝。目覚めた朝に村内の病院で診察を受けた。骨には異常はなかったが「左ひざ内側側副じん帯損傷と続発性関節炎」と診断され、ギプスで固定し、安静加療を言い渡された。4日にバルセロナをたつ予定の変更もあり得る。試合では痛さのそぶりさえ見せなかった古賀の、神がかり的な奮闘精神が改めて浮き彫りにされた。

◆生まれ 1967年(昭42)11月21日、福岡県久留米市生まれ、宮ノ陣小学校2年のとき佐賀県三養基郡北茂安町へ引っ越す。169センチ、71キロ。

◆柔道一直線 福岡・宮ノ陣小1年で柔道を始めた。佐賀・北茂安小卒業後に上京し、講道学舎へ入門。東京・弦巻中-世田谷学園高と進み、86年日体大入学。卒業後、同大学院に進学、92年4月から日体大助手。

◆昭和、平成の三四郎 弦巻中3年時に全国中学大会優勝。世田谷学園高ではインタハイ個人戦2連覇。高3(17歳)で、史上最年少の日本代表(フィンランドオープン)に選ばれる。86年ジュニア世界選手権優勝。89、91年世界選手権優勝。全日本選抜体重別選手権6連覇(87年から)。講道館杯体重別選手権5連覇(88年から)。

◆背負い投げ 始めたのは弦巻中2年の時、兄元博さんのアドバイスがきっかけ。元全日本王者の岡野巧氏仕込みで、立ったままで投げる。日体大の卒業論文(90年)のテーマは「背負い投げの魅力を探る」だった。

(年齢などは当時のもの)